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白雨
 
 両端が人に埋め尽くされている階段で、僕は夕立を知る。みな浮かない表情で壁にもたれ、片手で携帯を弄りながら、何とはなしにここから見えない地上を見上げている。地を叩きつける音と時折風が運んでくる雨粒で、上段まで登らなくとも状況は目に浮かぶ。僕も周りと一瞬のうちに同化して、やれやれと携帯を取り出す。特にかける相手もいないしメールも入ってない。メールの履歴を読み流しながら、一体どれくらいの人が意味もなくこんな格好をしているのだろうと思う。閉鎖的なこの細長い空間は、多くの人の小さな不安に満ちている。
 
 雨脚は一向に衰える気配がないようだ。誰も動き出さない。駅に車両が到着するごとに階段の憂鬱な密度は増し、傘を持っている一握りの人間だけが颯爽と、少しの優越感を浮かばせ飛び出してゆく。携帯を片手のポーズにも飽きた僕は鞄から文庫本を取り出す。短編が多いこの本の一編を帰りの地下鉄で読むことが僕の日課になっていた。新しく始まる話を読み出す度にいつも退屈だと思う。その舞台も心情もありきたりの日常に感じる。なのにいつの間にか引き込まれている自分がいるのだ。夢中に途中で気づくことなく、読み終わったところで我に返って笑い出しそうになる。情景や思いつきでどうとでも転がる心の推移が自分を捉えて離さない。また一話読み終えたところで、やっと僕は雨宿りしていたことを思い出した。また雨音が寄せてきている。こんなところにいても埒があかない。いやあくのかもしれないが、もうここには居たくなかった。
 
 人の隙間をくぐり抜け、鈍色の出口で足を止める。コンクリートは隙間なく水沫で覆われ、風が吹くと水煙があがる。リアルな映像に臆した自分を押しやって、足を一歩踏み出す。あっという間に雨は服や髪を濡らし肌を伝う。歩いても状況は変わらないことくらい分かっていたが、走っていないとみじめな感情が頭を擡げそうだった。人の疎らな場所まで来て、やっと僕は立ち止まる。人目で感情が左右される自分を滑稽だと思った。空は暗く、白く細い針のような雨の様をはっきり見ることができた。稲光を見逃さないよう瞬きすることも惜しい。台風や地震や雷に浮き足立つ気持ちは幼い頃から変わらない。不謹慎だと何度言いなしたところで押さえ込むことはできない。暫く白雨を眺めていると、そのうち目には映らなくなった。濡れそぼった髪の先から落ちる雫をぼんやりと見るでもなく歩き出す。何故か突然栗を食べたくなる。あまりに突発的だったその発想にきっかけを探してみようとしたが、見つけたところでどうということはなさそうだ。つまらなそうなことに時間を費やすことをやめ、代わりに黄色い栗の実のことを思う。蒸かしたばかりの温かいそれに歯をたてる感触を思う。それだけで僕の帰路は大分たのしいものに変わっていた。
 
                              2001.8.28


たまには笑ってみたり
 
 雨戸をぴしゃりと閉めたこの部屋は暗すぎる。時間の流れも外界も漠然としていて、部屋から顔を出したら実はこの空間だけ四角い箱になって宇宙を漂っていたりするのかもしれない。現実感のなさは心をさざめかせる。自分がどこにいるのか分からなくなってきた。
 
 雨戸を半分がらがらと開ける。向光性の植物のような気分だ。開け放った窓から道ゆく人が見える。老人ばかりでみな庇のついた帽子をかぶっている。途切れることのない蝉の声も、時折鳴る風鈴の音も、道ゆく老人も全て晩夏の演出に思える。少し大きすぎた風鈴の効果音に、彼は目を醒ましたようだ。「おはようございます」寝起き独特の掠れた低い声。もう午後2時なのになと笑いそうになりながら挨拶を返す。「おはようございます」自分の口から出た声も同じトーンで、何やら他人から発せられたような妙な気分になる。
 
 駅への見送りの途中にあのトラックを目にする。「たまにあそこで桃を買うんだ」別に意味はなかったが、何となく言ってみたかった。が、自分の耳に届いた少し得意げな響きですぐに気恥ずかしくなる。東京に住んでいるなら兎も角、作り物ではない自然に囲まれているはずの彼に、こんな風景は珍しくないだろう。ここで暮しているからこそ、あの赤茶けた風景を愛しく感じるのかもしれない。改札で握手を交わしたその手を何度か振った後、僕はまた誘蛾灯に吸い寄せられる虫のようにふらふらとトラックへ向かう。桃だけだと思っていた積荷は色とりどりで、計算などされているわけもないその配色は絶妙だった。太陽の下で見る果物はきれいだ。アジアのバザール、露店に騒然と並べられた商品は、きっと僕を興奮させるのだろうなといつも思う。奥には樹からつい今しがた採ってきたという風なバナナがあった。見事な房で何も考えず手に入れてしまいたい衝動にかられる。しかもコイン一枚でそれは僕のものになる。とても魅力的だったが、やはり僕はその後のことを考えバナナから視線を剥がした。あれでは一週間バナナのみで暮すことになるだろう。「梨はいくらですか?」おじさんが値段の書かれたダンボールの切れ端を押し出す。僕が視線をそらすと「そっちに5個500円のもあるよ」と道端を見やった。「じゃぁそれをください」袋に入れようとした奥さんにおじさんは「こっちの入れてやっていいよ」と言う。トラックに積んである方、倍の値段の梨だ。素直に嬉しく思った僕は「それから…この桃も」と付け足した。果物の詰まったビニールを二つ手に持ち僕は歩く。手を振り重さに身を任せながら、今日は確かに夏の日だ、と思う。
 
                              2001.8.26


更新報告
 
 久し振りに photo を更新。
 
    
「Junk!Junk!Junk!」     「上野公園」
 
                              2001.8.21


瞬きの瞬間だった
 
 僕は彼女を疎んでいた。いつも憂苦など知らぬといった自信に満ちた顔つきをし、合理的に物事が運ぶことを好む、僕とはまた別のリアリストだった。彼女の微笑みは全て嘲笑に映り、目の奥には人を蔑んだ冷やかな光が宿っていると感じた。僕は彼女と常に一定の距離を保ち、路傍の人を装いながら見澄ましていたのだ。
 
 シフト勤務の僕たちは個人個人で休みが違う。「アシタヒマダカラドライブニイコウ」偶然休みが合致する前の晩、彼女から届けられた不躾なメール。僕は彼女と二人きりになることを意識的に避けていた。なついているような素振りは村雨のようにさぁっと通り過ぎ、形のいい唇から諸刃で肌を撫でるような言葉が吐き出される。自分へ真っ直ぐ向かう鋭い刃先を想像することは、僕の気持ちを萎えさせるのに十分だった。掠り傷で済むとは到底思えない。ずっとそれを懸念していた。「ウミデモミニイキマスカ」何を思ってそんな返事をしたのか僕は今でも解からない。それはただの気まぐれだったとしか。
 
 無造作に着こなされた彼女の白いTシャツが翠緑の風にはたはたと音をたてる。空は貫けるような青とまではいかなかったが、薄藍色の彼方に雲がたなびいていた。海へ続くこの道の視界はひらけていて、僕たちの他に向かう者は見当たらない。僕はハンドルを握りながら、目の端に映る彼女のきれいな鼻の稜線を意識した。何度も通ったことのある道だった。車で1時間もかからない場所だから、きっと彼女だって通ったことはあるだろう。僕は真っ直ぐ前を見据え直し、故意にアクセルを踏みこむ。景色が車体を中心に流線型を描く。突然上がったスピードに気づいた彼女が僕に視線を投げかけた時、道の大きく起伏したところで僕たちは車ごと宙を飛んだ。ジェットコースターが下降する瞬間の浮遊感。長い空白。堕ちてゆく時間の中で、彼女の息をのむ音が聞こえた気がした。前にのめるくらいの衝撃の後、僕は何もなかったふうにそのまま車を走らせる。彼女を見遣ると蒼然とした顔色でうまく口がきけないようだった。「あの場所ではいつもあれをやるんだ」笑いながら僕が言うと、彼女はやっと息を吐いてシートに沈みこんだ。両手を口に当て「びっくりした…」と呟く彼女の声を聞いたとき、にわかにある衝動が頭を掠めた。彼女を泣かせてやりたい。潮風に揺蕩いながら、確かに僕はそう思った。
 
 水の中に入るにはまだ肌寒いこの季節の海はほとんど誰もいなかった。海岸線に沿って走る道を奥まで進む。海を見る彼女は案外うれしそうで、僕はまんざらでもなかった。好奇心から車のまま砂浜へ入る。砂にハンドルをとられそうになる感覚が面白くていたずらに走らせる僕に「調子に乗ってるとはまるんだから」と彼女が笑う。「はまって帰れなくなろう」冗談のつもりでそう答えた僕の耳にタイヤの空回る音。「え、はまったの?」「あー…はまった」ちょっと見てみるよ、と砂浜におりるとタイヤは半分近く砂に埋もれていた。とりあえず掘り出そうとしゃがみ込んだ僕の後ろにいつの間にか彼女が立っている。何か辛辣なことでも言われるのかと身構えたが、彼女は鼻歌など歌い出しそうな顔つきで砂を掻きはじめただけだった。砂をどけ、周りを少し踏み固めてアクセルを踏む。トランクに放り込んだままだったシートを広げ、タイヤの下に挿しこむ。だけど車は一向に進む気配を見せず、タイヤはどんどん深くなる穴にはまる一方だった。5度目のチャレンジも失敗に終えた僕たちを薄暮が包みはじめる。夜盲の僕はさすがに危機感を感じ始めていたが、彼女は焦るでもなく「本当に帰れないかもね」と歌うように言った。携帯には圏外の文字。「絶対動かしてみせる」ロボットみたいに言い続ける常套句。
 
 彼女は飽きもせず琥珀色のアールグレイを飲んでいる。「スタートレックって知ってる?ピカード艦長はいつもアールグレイを飲んでるの。あれはSFと言うより人間ドラマよ」僕はスクリーンに映し出されたワールドカップの行く末を横目に曖昧に頷く。あれから車は、偶然通りかかったカップルと車によって救出された。林間学校から家へ帰る時のような心地よい疲れと安堵。僕たちはファミレスの硬いソファにもう2時間も座っている。「泣くかと思った」何のことか解からないといったふうに彼女は頬杖をはずす。「あの時泣かれたらどうしようかと思った。あのまま車が動かなかったらどうしてた?」「あんなことでどうして泣くの?どうにかなると思ってたから。帰れるにしろ帰れないにしろ」相変わらずの傲慢さで少し顎を上げ彼女は澄ました。彼女のアパート前には冬には登れないような短い急な坂があった。その坂の下に車を止めると彼女は「ありがとう」と言った。楽しかったと続ける素直な彼女に僕は揶揄する言葉を飲み込んだ。 急に頭を白紙に戻してしまった僕は「歯が痛い」と支離滅裂なことを言う。「痛くなくなる魔法かけてあげようか」呪文でも唱えるのかと間抜けな顔をした瞬間彼女の顔が近づき僕は視界を失った。坂を登りきる彼女の姿が見えなくなるまで、ずっと僕は間の抜けた顔をしていたと思う。
 
 僕より3つ歳下の彼女は嘘を見抜くことと意図的に人を傷つけることに長けていた。感情的に罵ることを押さえ、どうしたらより効果的に精神的ダメージを負わせるかに重点をおき、頭の中で言葉を並び替え、脈拍が乱れるのを眺めているかのようだった。そのくせ時に、僕が恥ずかしくなるような無防備な表現をする。その度に僕は彼女を強く抱きしめて、へし折ってしまいたいような感情にかられた。老成の中に無邪気さを混在させている彼女に、胸がしめつけられるような愛しさと唇を噛むような嫉妬を感じていた。僕は彼女を泣かせてみたかった。僕たちのつきあいはどこにでもいる恋人たちそのものだった。二人でレンタルビデオを借りに行ったり、コインランドリーの乾燥機の前で並んで雑誌を読みながら待ったり、時には吐露し時には窺う、そんなありふれたものだった。お互いの融解点が見えなくなった頃、僕は決心した。これが最後の賭けだ。「別れよう」その言葉に彼女は顔をあげ「そうだね」と弱々しく微笑んだ。僕は見逃すまいと彼女の目をじっと見つめたが、そこには凛とした光が宿っているだけだった。「キスしようか」「いいよ」25ヶ月の彼女の魔法がとけると同時に、鋭い痛みが鼻を撲つのを僕は感じていた。
 
                              2001.8.17


 
 東京の海の色は相変わらずだね
 うん 澱んでいる
 でも東京湾がエーゲ海のようなエメラルドグリーンだったら
 …何だか気持ち悪いな
 うん やっぱりこれが一番しっくりくるんだ
 
 
 
                              2001.8.15


東池袋
 
 濃緑の木叢から降り注ぐ蝉時雨。喧騒の中、僕は凝然と立ち尽くす。
 
                              2001.8.14


圏外
 
 僕の感性は死んでしまったよ。まぁ元々偽物だったんだけどね。僕は何も映らなくなることに酷く怯えてて、焦って周波数を合わせてみたりするんだけど、ここは圏外アンテナなど立ってはおりません。
 
 雨上がりの夕方。窓を開け簾をおろし洗濯機を回す。どこかの家の夕食と秋の匂いに誘われ家を出る。シャワーを浴びたせいか、空気はさらりと腕を撫でる。坂道を下る僕の右手には同じ形をしたブロックで出来たみたいな団地が並んでいる。窓から漏れるオレンジの光。TVの声。食器や箸がカチャカチャと鳴る音。急に自分が一人に思えて早まる足を坂道の所為にする。自販機の隅に小さな猫がいる。子猫のようにも見えるが何かアンバランス。近づいても逃げる気配がない。しゃがみこんで顔を覗くと片目が潰れていた。キミは怖くないの?どこまで信じているの?こんな僕を笑う?はは、笑え笑え。
 
                              2001.8.12


Re:無題
 
 他人を否定して、自分を否定して、肯定した気になっている。
 
                              2001.8.11


サイレンス
 
 歩いている途中で僕は突然蝉が鳴いていることに気づいた。それは大きくもなく、小さくもなく、ちょうど雑踏に紛れ込む中くらいの声だった。意識をすればうるさくも思える声なのに、僕はさっぱり気づかずに何度通り過ぎたのだろう。
 
 空いていた車内は途中の駅から混みはじめ、一番端のシートに座っていた僕の横に若い女の人が立った。杖を持っていることで、目が不自由なのはすぐ分かった。席を譲ろうかとも思ったが、もしかしたらこのドアの横が彼女の定位置なのかもしれない。下手に譲って気を使わせるかもしれないし、降りる勘が鈍ってしまうかもしれない。目が不自由な人に席を譲るのが当たり前の行為なのか判断しかね、かわりに僕はヘッドフォンから流れる音楽のボリュームを下げた。そして彼女は僕の聞こえない音がたくさん聞こえるのだろうな、と思った。シートに座ったまま、僕は目が不自由な少年の映画を思い出していた。「サイレンス」と「太陽は、ぼくの瞳」。後者のほうが好みだったが、勝手に僕が想像した彼女の世界は音と色彩を前面に押し出した「サイレンス」に近かった。バスに乗り仕事場へ向かう途中、きれいな音楽の音色にふらふらとついて行ってしまう少年。ぼんやりとそんなことを思っているうちに、彼女は僕が降りる一つ手前の駅で降りた。
 
 僕の住む町のどこからか、お囃子の音が聞こえる。小さな商店街にはいつの間にか堤燈が飾られている。浴衣姿の人たちが、うちわを片手にゆっくりとどこかへ流れてゆく。空はとうに暮れていたが、公園内では子供たちがボールを高く放っては掴む遊びに興じていた。この町の子供にとって今日は特別な日なのかもしれない。子供も少しだけ夜遊びできる、そんな特別な日。どこから音が聞こえるのか、立ち止まり人の流れを振り返ってみたが、僕には分からない。音だけをたよりに歩いてみようか、と考える僕の足は相変わらず方向が変わらない。いつもより少しだけ多くの人たちとすれ違いながら、まだ知らないことも多いこの町に自分が住み始めてちょうど一年が経ったのだと気づいた。
 
                               2001.8.7















































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