log (2001.9 〜 2001.12)
 
9月1日
 10年習っていたピアノに10年触っていない。披露できる曲など何一つないし、今は楽譜すら読めないのではなかろうか。
 人の演奏するピアノをあんなに次々に聴いたのは初めて。コンクールの二次予選ってことはそれなりにピアノのうまい人たちが集まるわけだけど、順位をつける基準がさっぱり分からない。どれが世間一般にうまいと言われるものなのか判断がつかない。ので、これは好き、これはあんまり、と自分の好みでうまいへたを判断した。自分の基準に合わせたら、随分と楽になった。一音目、とまではいかないけど一小節聴けば好きかどうかすぐに分かる。触れた人によって音も変わる。同じピアノなのに。好きじゃないと思う音はどこかくぐもっていて、曇りガラスみたいに向こう側が見えない。次にどこの鍵盤を押さえるかで精一杯で、うまく押さえられなかった指から奏でられる不協和音はムズムズする。途中でつまづいてやめてしまう人もいた。中高生の部でも途中の和音でどこを押さえるのか分からなくなった子がいた。何度か弾き直すんだけどやっぱり出てこないみたいで、何かそれ分かるなぁと思った。暗譜ができていないというより、今まで無意識に押さえられてた鍵盤の位置が突然分からなくなる瞬間。それって九九に似ているような気がする。急に8×7が分からなくなるような。そんなことは普通ないのかな。その子が弾くピアノは好きって思ったので、やめないでって心の中で。その子は何だったっけ、みたいな顔で舞台のそでを振り返ったけど、その後その先のところからまた弾き始めた。最後に引っ掛かったところと同じフレーズが繰り返されたけど、その時はちゃんと弾けていた。自分の中の流れが止まってしまうのは怖い。
 ピアノを弾くめのこちゃんを初めて見た。心配も期待もなく、ただどんな風にどんな音を出すのか見たかっただけだ。プログラムで5番目の早い位置に彼女はいて、まだ私も判断の基準に戸惑っている状態だった。弾き始める前の空白で空気は変わる。彼女の周りにはこちら側から叩いても壊れない透明で堅い膜ができる。それなのに、弾き始めた瞬間彼女は私の腕を強く掴んでひっぱった。堅い殻はシャボン玉のようにスルリと私を内へ招いた。彼女の細い腕から、何故こんなに強い音が出るんだろう。どうしてこんなにやさしくて、柔らかな音が出るんだろう。どう説明したら伝わるのか分からない。いちいち理由付けもしたくない。それは鼓膜や網膜のフィルターを通さずに、私の内に訴えかけるもの。すごく直接的に入ってくるもの。目を逸らしなよって声が聞こえる。目を逸らして、早く雑念を入れて、この感覚は厄介だよ。だけどできなかった。全然動けなかった。うまくコントロールできないまま泣いていた。また聴かせて。また聴きたい。でも言えなかった。私は何度でも泣きそうな気がする。訳が分からない。
 
 
9月22日
 彼に膝枕をしてもらい私は満ち足りた気分でくったりしている。こんな気持ちは忘れていたよなんてもったいないことを。彼は私の身体の上に片手を置いている。私は突然手の乗っかっている場所が左胸なことに気づいてしまった、と同時に彼も同じことに気づいたみたいだ。もう片方の手を右胸に当てられて私は自分がノーブラだったことを初めて思い出す。「あれ、ノーブラだった」恥ずかしくなって笑いながら手を外そうと身体をよじったら、彼はTシャツの下から手を入れようとした。「何してんの。○○さん変だー」何故かとてもおかしくなってあははと笑ったら、彼は「ノーブラのほうが変だ」と言って笑ったのでまったくその通りだなぁと思った。
 変な夢を見た。幸せな夢を見た。目が覚めて少し悲しくなったのは久し振りだった。彼が誰だったのか知っているような知らないような懐かしいような忘れてしまったような笑いたくなるような泣きたくなるような、そんな。もうこんな夢は見たくない。
 秋の匂いがする。ああ、秋の匂いはさっきの夢に似ている。台所はもう冬の匂いがした。
 
 
10月13日
 今日の空は青いよ。落ち葉を踏むと乾いた音が響く。歩きながらにやにやしてる。
 

 

 

 
 
10月18日
 私はぐんにゃりとした無脊椎動物を皮膚一枚で被っている。「あれあれ普通に生きるのが難しいよ?支えて支えて」それを見透かされないように、私は背筋を伸ばす。
 
 
11月18日
 葬式に憧れる。「式」とつくものは何だかどれも嘘っぽい含みを持っているような気がするけど、葬式のそれになら身を委ねてみたいと思う。それはささやかな願いにも似ていて、私は時々白檀の甘やかな匂いを想像しながら、誰か死なないかなぁとぼんやり考える。そこに悪意はない。あるのはただ暗く艶めかしいものへの興味。
 
 
11月20日
 住宅街の細い道を歩いていると小さな鈴がちりちり鳴って、黒い門の下から白い猫がするりと抜け出した。何の躊躇いもなく足に擦り寄りおかえりと言う。私はキミのご主人じゃないよ。しゃがみ込んでそう伝えたが、あとはもう何を言っているのか解からない。しきりに私の周りをくるくる歩いたり、膝に前足を乗せてみたりする。困ったなぁお腹が空いているのかなぁ。コンビニの袋がかさかさ鳴ると、それは何?と目を丸くして尋ねてきた。何もないよと後ろ手に隠し、キミはいいとこのお嬢さんだねと背中を撫でながらお世辞を言った。いつのまにか白い猫は2匹になっていて、首輪がなければ区別がつかない。あの子は兄弟?と訊くと通い夫だと言う。今日はきれいな三日月の夜だから、これから二人で散歩をするの。立ちあがって空を見上げると、確かに絶妙な形の三日月が燈っていた。それじゃぁね。別れを告げて歩き出す。二人はゆっくり後をついてきたけど、鈴の音はだんだん小さくなり、曲り角を曲がる頃には聴こえなくなった。玄関の電気をつけコートを脱ごうと袖を見ると、白くて艶やかな毛が何本かついている。私はそれを丁寧に取り、ごみ箱に捨て、手を洗った。
 
 
12月30日
 前日に酒を飲んだにも関わらず、予定よりいくらか早い時間に目が醒めた。7時過ぎには身支度も終わってしまったけど、ガオレンジャーなど本気で見ているふりをして、この先を忘れてしまおうと努めた。正直おもしろかったので一瞬本当に帰ることを忘れた。天気予報に切り替わった画面で午前8時になることを知り、荷物を両手にのろのろと新宿へ向う。
 肩越しを擦り抜ける丸ノ内線に煽られ、浅葱色のマフラーは風を含んだ。ゆっくりと勿体つけた捲れ方をしたので、その曖昧で怠惰な揺らぎに少しいらついた。ハイウェイバスのりばは厚着をした人たちがいっぱい屯していて少し異様な感じがしたけど、それを見たらいよいよ帰るって現実感も湧いてきて、煙草を持つ手が震えた。灰皿を取り囲む人たちに気づかれないように、毅然とした表情をつくり左手で右腕をきつく掴む。バスはこの時間3台出るらしい。3台分の同郷者。冴えない感じがするのも多分気のせいじゃない。
 バスが動き始めた途端、曖昧だった感傷がせり上がった。具体的に何を思い出した訳でもないのに一体何なの、と奥歯を噛み締め、島屋のイルミネーションを睨みながら小さく鼻を啜った。新宿、池袋、王子。それでも盛り上がったのはバスが動き出した一瞬で、私が充分記憶を辿る前にバスは東京を抜け出してしまった。
 文庫を手にしつつ、ほとんど窓の外を眺めて過ごした。那須から白河へ入ることを示す標識には『ここよりみちのく』と書いてあった。みちのく、か。久しく聞かなかったフレーズ。ゆっくりと口の中で音色を確かめる。空は水色一色で、その端を雲が雪のように積もっている。
 すっかり葉の落ちた柿の木の枝には熟れすぎた朱色の実がぶら下がっている。地面に積もりっぱなしの雪の上にもいくつか落ちていて、白と朱のコントラストは遠くの目にもはっきり見えた。雪など珍しくないから誰も弄らない。木の根元へ行って確かめるまでもなく、雪は本来の色のまま残されているのだと思う。それから何となく那須PAの隅に固められた黒い雪山ではしゃいでいた子供たちを思い出した。
 二本松にさしかかったところで景色が吹雪いていることに気づいた。窓に額を軽くつけると外の冷気が一点から体全体に流れ込んだ。バスはいつの間にか空の端にあった雪の中に埋まっていて、私は窓から額を離し、白濁した窓ガラスと風景を交互に見た。
 































SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送