log (2002.3 〜 2002.5)
 
3月7日 
 たった20分間、どう過ごしたらいいのかわからない。とにかく向こう側へ渡ろう。とりあえず、向こうだ。そう思いながら横断歩道の端で、スニーカーの紐を今日も結び直す。立ち上がる刹那、左肩越しに空気の流れを感じ、流れたと思ったときにはもう男の後姿が私の視界に入っていた。
 ぎょっとした。追い越す身のこなしに、何も音が聞えなくなるくらい、ぎょっとした。身体に馴染むスーツの線、歩くときの足の運び、立っているだけで伝わってくる自信に満ちた空気。人に疎まれるほどの、あの、傲慢な空気。とてもよく似ていた。違う人とわかっていながら、寧ろ違う人とわかっていたから、横断歩道を渡りきるまでの間紺色のスーツを凝視した。横断歩道の真ん中で、その後姿を憎いとすら思った。
 憎んでいたわけではなかった。20分間をつぶす為だけに入ったドトールで、先ほど咄嗟に湧きあがった扱いにくい感情を嗜める。そう、別に本人を憎んでいるわけではない。しいて言えば、記憶だろうか。
 寝ても醒めても頭から離れず、いつも視界にその姿を探している、なんて従順な思いから程遠いところに彼はいる。偶然の些細なきっかけ(例えば匂いや場所)さえなければ記憶の蓋がひらかれることはないし、それは封印されているというより、正直、ほとんどの時間忘れてしまっている。自ずから姿形を思い出そうと目を瞑っても浮かんでこないくらい、忘却の彼方にある。
 些細なきっかけでふと思い出す記憶は、匂いや空気や温度みたいにぼんやりとしている。だから私は安心して、もう少し、と手繰り寄せることができる。だけど声や姿はダメだ。大きなジグソーパズルの上、何とはなしに片手で弄んでいたピースが突然カチリと嵌まってしまうと、ぎょっとして竦みあがる。勝手に記憶がぶちまけられ、視界がぐらりと揺らぐ。そして自分が何処に立っているかもわからぬまま、憎いなどと勝手に思う。一瞬のうちに私をこんな気分にさせる、記憶の根源が憎いと。こんな気分になっていることも知らぬ、遠い場所の本人が憎いと。これは私だけなのだ、と思えば余計に憎い。
 彼も思い出すことがあるのだろうか。こんな気分に陥ったとき、いつも思う。街角の看板で、本で、TVで、名詞の彼の名前を見かける度に思う。街角の看板で、本で、TVで、私の名前を見かけたときに、彼は思い出しているのだろうか。不可抗力で記憶をぶちまけられたりしているのだろうか。そうだったらいいのに、と冷淡な気持ちで時計を見遣る。始業15分前。そろそろ行かなくては。
 イヤフォンを耳に突っ込むとジュビリーが流れていた。なんて今の気分にそぐわない歌なんだろう。息を吸え。言われるがままに吸い込む。街中の空気はただつめたく、何の匂いもしなかった。
 
 
3月15日
 泣くことが悲しむ行為の最高峰だとは思わない。
 
 久しぶりに自分のことで泣いた。自分の状況に、自分を制御できない不甲斐なさに、言い訳をトラウマに捩じ曲げ凶器として用いようとした自分に、悔しくて泣いた。息を吐くたび涙は流れ、はたはたと畳に落ちた。
 最も分かりやすい悲しみの表現方法。甘美でナルシズムな表現方法。自分を想って泣きたくなんかない。これほど辟易し、これほど陶酔する行為ってない。開放、官能、蔑んだ目で自分を見つめる冷やかな私は、吐露することの快楽を知っている。冷やかな目を瞑り、気持ち良さだけ追求すればいつだって、何度だって泣ける。例えば精神科医のもと、やさしく「話してごらんなさい」などと言われ口にすれば、必ず私は泣くだろう。私は心のどこかで自分をかわいそうと思っているのだから。だから怖い。口に出すことで、泣くことで、それをあからさまに認めるのが怖い。もっと泣きたくなるから泣きたくない。それが当然になりたくない。
「そんなに苦しまないで。泣きたいときは泣いていいんだよ」
 もしも誰かにそんなこと言われたら、きっと私は薄く笑ってひっぱたくと思う。
 
 
3月21日
 バス代がもったいないので歩いて図書館へ行くことにした。鞄にがさがさ本を詰めていると、母が「家出?」と訊く。ここでへらへら「はい、家出です」などと答えれば「じゃぁね」と締め出されるのが目に見えているので、「違います」と生真面目に答えた。冗談は言うくせに、それを冗談で返しても通じないから恐ろしい。
 家を出る時改めて「図書館に行ってくるね」と告げると「私のも返してきて」といそいそ本を持ってきた。自分のが5冊、母のが4冊、ほとんどハードカバーで鞄がパンパンになった。歩いていくんだけど…と言いそうになったけどそれはあまりに恨みがましいので、かわりに「借りてくるもんある?」と訊いた。著者名やタイトルを言ってくれれば探す、という意味だったのだけど、「何か私好みのもの借りてきてくれるの?」と可笑しそうに言うので、「それは無理」と断った。キノコの本など読む人の好みなんぞわからない。
 
 外は春と言えば春だし、天気は晴れと言えば晴れだけど、空を仰いでくんくんと匂いを嗅いだり、溶けるようにくらくらまわったりしたくなる気候ではない。細い坂道を下りながら、中途半端な、何もかも中途半端な、と悪態を吐いた。都会でも田舎でもないここは本当に中途半端で、訴えかけてくるものがない。それでも歩けば、手のひらが熱くじっとりと湿ってくるのがわかった。末端部分が温まるのは珍しかったので、本当に熱くなっているのか手の甲や頬に当て確かめてみた。春ではあるらしい。
 
 返却カウンターにどさどさと9冊置き、放たれた気分で書棚に駆け寄る。相変わらず川上弘美はなかったが、借りる上限の5冊はほんの4、5分で呆気なく決まってしまった。どうせ読めやしないくせに、10冊くらい借りたいと思うところが意地汚い。会社経費の飲み会やホテルの食べ放題の朝食はがっつり食べるタイプ。「センセイの鞄」はいつまで待っても目に触れそうになかったので、「象を洗う」と合わせて予約することにした。
今日借りた本
「からくりからくさ」 梨木香歩
「バニシング ポイント」 佐藤正午
「秋の花」 「六の宮の姫君」 北村薫
「蝶の舌」 マヌエル・リバス
 
 家へ戻ると同時に母にほいっと野菜を手渡された。洗っとけってことか、と緑の野菜を包み込んだビニールに目を遣ると、斎 藤 福 子 と書いてある。あまりに大きく書いてあるので一瞬焦ったが、もちろん斎藤福子という食べ物ではない。斎藤福子さんの作った普通のほうれん草だ。びっくりした。
 
 
     斎藤福子な野菜         キャベツと言い張られた野菜
 
 
3月27日
 13種類の穀物入りご飯
 しじみ汁
 三つ葉のおひたし
 鮭の塩焼き
 筍の水煮
 ハム
 白菜の漬物
 黒ビール
 
 
4月1日
 これから始まる午後が、自己PRすら訊かれず僅か10分で終了した二次面接を顧みて過ごすにはあまりにもったいない日和だったので、一人花見にゆくことにした。3桁しか残高のない口座も2つ合わせれば4桁になる。中途半端に恥らっては具合が悪いと、必要以上に堂々とした風情で3桁の通帳を2冊まとめて窓口に出す。お姉さんは毎日窓口にいるのだから、こんなこといちいちおかしく思ったりしない。
 今すぐ店に飛び込んで食べてしまいたいくらい空腹だったけど、そこは大人の了見で、桜色の空気と共に頂きたいところ。駅構内を2往復してフレッシュネスバーガーとビアード・パパのシュークリームをテイクアウト。2往復と1000円で出来る限りの贅沢。それからピーチカクテルを一缶。本当は100円の梅酒にしようと思っていたのに、予想をはるかに上回る小ささで唖然。こんなんじゃ欲求不満でどうにかなってしまう。
 
 バスの右の窓から貫けるたんぽぽ色の日差しに目をしばたかせながら、ゆっくり過ぎてゆく菜の花や椿や白木蓮を眺めた。前の座席にはおじいさんが二人並んでいて、左のおじいさんの膝にはちいさな男の子がちょこんと乗っている。T字路の信号の向こうに枝垂れ桜が見える。「もうすぐ桜が見えるよ」右のおじいさんが男の子に話しかける。信号が青になり桜が近づく。老人ふたりは眺めようという素振りも見せない男の子をちらと見遣ってやきもきしていたが、バスが大きく曲がる頃にはふたり揃ってポカンと口をあけ、同じ加減でゆっくりと大きく首をまわした。男の子は膝の上で上着を脱ごうと身じろぎしている。
 堀沿いに佇む枝垂れ柳の葉の色があまりにもきれいで、思わずはっと息を飲む。あれは何色と言えばいいのだろう。若草色だろうかと考え、あまりしっくりこないので柳色、と訂正した。三年程住んだことのあるこの町は細い堀が廻っていて、そこに何本もの短い橋が架かっている。私の借りていたアパートも橋をふたつ越えたところにあった。3歩で渡れるような橋だけど、どれも慎ましくよい響きの名がついていた。この水路は昔荷物を運ぶために作られた、と散歩の途中に目にしたような気がする。
 
 酒が温もらないうちに公園についたのはいいが、なんと桜が咲いていない。なんと桜が咲いていないのに花見をしている人は多い。なんじゃこりゃと思いながら奥に歩を進める。いつもは犬も通らないような場所にまで人がいる。平日というのにみな暇で平和だ。
 空いたベンチをひとつ見つけ花見用ランチを広げた。昼間から女ひとり酒を飲む姿が他人にどう映るのだろうと、隣のベンチのカップルを少し気にしてみたが、今日はそういうことがしたかったのだとすぐに開き直り分厚いハンバーガーを齧った。隣の女の甘えた声に薄気味悪いものを感じていると、突然「見ちゃダメ!」という言葉が別のほうから飛んできたものだから、私のことかと驚いて顔を上げれば、飼い主にぐいぐい引かれた大きな犬が私を見てる。私、というか私が手にしたハンバーガーを見てる。それに気づいたら、欲しい欲しいと目を潤ませる犬と見ちゃダメ!って思わず叫んだ飼い主が可笑しくて、アハハと笑ってしまった。飼い主も、ぐんぐん綱を引っ張りながら困ったように笑った。
 右頬を温もらせる陽光と甘いアルコールに、気持ちが良すぎてぼんやりする。膝の上の文庫本は二度も転がり茶色くなった。保坂和志の「季節の記憶」はどうしても笑いが噛み殺せなくてこっそり読むことにしてたけど、ぼんやりと空の下でにやにやするのはとてもしあわせ。
 
 
 
4月9日
 昨日、短期アルバイトの問い合わせをしたらスーツは紺か黒と言われ、そんなの持っていなかったけどここで引き下がるのもアレだし、ずーっと昔に友達にもらったナイスクラップの黒いジャケットでいいやなんて思って、面接に出掛ける一時間前に着てみたら、何がってうまく言えないけど何かがおかしい。決してカジュアルではないんだけど、それスーツかなぁ…っていう。でもまぁ今更しょうがない。ずっと鏡見てると外に出られなくなりそうだったので、さっさと諦めて下に降りた。
 私を見た母のパンを焼く手が止まった。口元を歪ませてる。「ねぇ、この格好ちょっとバカにしてるかなぁ」と訊いたら、スカートについていた糸屑をつまんで「何だかスリットいやらしい」と言った。ここにいたら次々と色んなこと言われそうな雰囲気だったので(実際シャツの色もどうだとか言い始めた)「折角女に生まれたんだから、いやらしくってなんぼでしょ」ってよくわからないことを言い放って、やけっぱちで家を出た。
 
 山の上、春雨に煙るひなびた遊園地をフェンス越しに見下ろし、生温い空気の中で日がな一日ここを眺めていたいと思う。園は周りの満開の桜に埋もれているようで、こういうのを花煙って言うのかしらと考えながら、傘をまわす。桜色から園を蔓延る白や緑のレールが見え隠れし、時折思い出したかのように動き出すジェットコースターが、カタンカタンと乾いた音を空に響かせる。
 一時間に3本のバスを20分間に集中させるっていうのはどうだろう。残り40分間、こんな山の上で一体どうしろと。時間通りにバスが来たところで面接には間に合いそうになかった。原付があればいいのに。原付に乗って樹木に囲まれたあの細い坂道を、滑るように、転がるように、勢いよく下っていけたらいいのに。樹木も空も湿った空気も、土も魂もぬるい温度も、全部混ざってぐちゃぐちゃになって、境目がないほど融けてしまえばいいのに。
 いつの間にか掴んでいたフェンスから左手を離し、停留所の屋根の下、傘をとじる。ビニールの表面をわっと滑り落ちる水の玉は、突然ふつと切れるビーズのアクセサリーを思わせた。スローモーションでこぼれ落ち、足元で弾けるいくつもの玉。何も出来ずにただ呆然と、それを眺めている自分。もう、間に合わない。だけど、構わない。
 
 使うはずだった交通費で映画を観てしまえ。「活きる」が観たかったのだけど、まだ始まっていなかった。それでも何か観なければとなんとなく「恋ごころ」に決め、喫茶店で映画のチラシ眺めながら上映時間を待つことにした。
 「ピンポン」のチラシをすこぶる気に入る。原作と同じポーズを実写もやってて面白い。裏面の人物紹介で、チャイナ役のサム・リーがものすごくかっこよく写っている。泣きぼくろ具合にきゅんとくる。動いてるの見たことないから実際好みかはわからないけど。ドラゴンが超ドラゴンで卒倒しそうになった。アクマ役が大倉孝二。もう高校生ってこと全く無視したキャスティング。ペコ窪塚かよ〜って思ってたけど、なんか俄然観る気出てきた。私の中の実写版ペコは倉持陽一なんだよなぁ。そんでおばばは野村沙知代。
 期待してなかった「恋ごころ」は思ったよりもよい話だったけど、舞台の上で女の人が話すイタリア語の台詞の抑揚とウォッカに酔った。酔いしれたって意味じゃない。役者が舞台に揃ってむしのいい話みたいに終わるけど、気持ち良く席立ちたいし、やっぱりあれでいいのかも。「幸運を」振り返ってさらっと言いたい。
 
 
4月11日
 2年半前まで一緒に働いていた人たちと夜に宅飲み、次の日花見。私も含めてみんな相変わらずバカで下世話で情けなくって笑ってしまう。みんな全然変わってないのに、花見で会ったこっちゃんだけ2年半分大きくなっていてすごく不思議。時間はやっぱり流れてるみたい。
 私は、職場結婚したS夫妻の旦那のこと、男って本当にバカねって言うようなバカの典型ってずっと思ってたけど、夜に待ち合わせした後「昼間おっぱいパブ行くかどうか迷ってて、まんが喫茶で我慢してたんだけど… 俺いますげぇ苦しいのやぁ」って切なそうに言うの聞いて、もうすっごい可笑しくて、人の旦那つかまえてこう言うのもアレなんだけど、あんたほんとにすっごいバカ。愛しいくらいバカ。
 花見に行く前は夜のアルコールの所為で口きくのに支障が出るくらいグロッキーだったけど、会場に着いたらS夫妻の嫁はもう先に来ていて、2年半ぶりに会ったこっちゃんはチョコバナナ持って歩いたり食べたり素っ気なかったりしてて、「私初めて人の子供かわいいと思ったわ」ってちょっと感動しながら言ったら、「うちの子はかわいいよ」って当然みたいに嫁は答えた。こっちゃんは昨日帰ってこなかったパパのことを怒っているのか「パパきらい」とか言って、旦那が手広げても全然寄ってこない。
 ちょっと公園行って機嫌とってくるねとこっちゃんは嫁に連れていかれた。嫁も昔と変わってないのに、こっちゃんに添えられた手がお母さんに見えた。旦那は舞い散る花びらの中、ビールを飲みながらもときどき目が虚ろで、我にかえってはショックだとか悲しいとか呟いてる。それを見ながらみんな苦笑い。
 こっちゃんは公園から帰ってきても暫くそっぽ向いてたけど、そのうち機嫌も直ってきてちょっとずつ喋るようにもなって、旦那が手広げて「こっちゃん」って呼んだらどうしようかなって感じに近づいてやっと首に抱きついた。すっごい愛しそうに娘を抱きしめながら「泣きそう」って情けない顔で笑ってるの見たら、なんかこっちまで無償の愛みたいなのが伝わってきて、こっちゃんをだっこしてる旦那の表情とか、顔にあたる桜の花の房をくすぐったそうにしてはにかむこっちゃんとか、そんな光景がものすごく良くって、恥ずかしげもなくそんな純粋な愛情見せられるってすごいなとか、これ以上疑う余地のない無条件で圧倒的な愛ってないなとか考えながら、知ってるような知らないような気持ちに自分がじわじわ包まれているのを感じた。
 
 
4月29日
 南下する高速バスは日付変更線を越えた飛行機のように、少しばかり季節を飛び越えてしまったようで、車窓にたなびく樹木の葉が艶やかな深い緑になった途端、何も感じられなくなった。
 東京の空をまだ見上げていない。私の目は早足の足元ばかり映す。休日の竹下通りはみな左側通行で、緩い流れに身を任せながら宛ら七夕祭りのようだと思う。薄いピンクのワンピースとナースシューズ、肩にひっかかった黒のカーディガン。銀の柱に映る歪んだ誰かの姿を自分だと認識するまでの時差。
 意識の9割が朝起きることに向けられている日常は、ふとしたことで途方に暮れる。始業までの時間ラフォーレ前で手首の数字を横目に煙を吐き出すとき、辺りを漂うクレープの甘い匂い、口の中でとけるつめたい芋の煮っころがし、文庫から上げた目に映る通るはずのない駅の名前。
 暗い夜道をぼんやりと虚ろな足取りで歩いてゆく。ドアを開き、靴を脱ぎ、床に座り込む頃には、明日の朝に気づいてしまうから。ゆっくりと途方に暮れながら、からっぽな私は歩いてゆく。
 
 
5月22日
 もともと融通のきかない性質なのだから、もう諦めるしかないのだ。仕事の日も休みの日もお構いなしに、胸やら背中やらがざわざわしている。考え事は支離滅裂なまま四方八方散り散りになり、ふと顔を上げれば最初からなかったような風情。
 どこからか流れ伝わるお囃子に何を感じるわけでもなく、非日常の中にいるであろう男たちの半纏から伸びるぬらりと光った足に、生魚を見るような面持ちで通り過ぎる。男の人ってこんな形してましたっけ。
 
―アイスティに注がれたシロップはグラスの底で…
 デザートの皿の上から、季節はずれのスイカの欠片を口に運ぶ。
―アイスティに注がれたシロップはグラスの底でオーロラのように揺らめいて…
 発泡スチロールのようなその感触に、何度も何度も咀嚼してみる。
 
 
5月25日
海へ行くつもりじゃなかった
 
 物忘れが激しい。今までも、これ以上忘れることなどあるのかと思うほど忘れていたのに、まだまだ忘れられることはあるようで驚く。財布や約束を忘れるのではなく、自分の内に向かっているものを忘れる。明治通りを見下ろし、大して美味くもないカレーをご飯の側から掬っているときにも(人伝に聞いた伊藤家の食卓の「カレーをきれいに食べる方法」を実践。こういうことは憶えている)何かしら考えているはずなのに、3分経てば跡形もなくなる。そして二度と思い出さない。稀に思い出したとて、それもまた3分で忘れる。こうしてビルダーを立ち上げた私は、点滅するカーソルをただただ見つめ、途方に暮れなずむわけだ。
 
 海の話をしよう。
 私は海を嫌いじゃないと思う。もしかしたら好きなくらいかもしれない。できれば日が暮れきる前の仄暗い海、夜が明けきる前の仄明るい海がいい。季節は晩夏が望ましいが、泳ぐ時節じゃなければこの際いつでもいい。ただ、砂浜は必須だ。これだけは譲れない。
 このようにシチュエーションを提示するくらいだから、やはり私は海を好ましく思っているような気がする。気はするのだが、どうもぴしりと断言できない。ひとたび海へ行ってしまうと、わからなくなるのだ。
 つめたくやわらかな砂に足を埋めつつ波打ち際を目指す間に、身体の奥はしんと静まる。頭の中に冴え冴えとしたものがどんどん浸み入り、いざ海を前にした自分はどんなリアクションをとるのが適切かと考え始める。駆け出して、叫んだり波を弾いたりするべきだろうか。連れの人が男なら、抱きかかえてもらい、くるくる回されたりしたほうがいいのだろうか。それは自分を見ている他人を想定しての考えか。それではひとりだとしたら。一体私はどうしたいのか。
 ずんずん海に近づきながらどんどんわからなくなる。連れはどうしているのかと、振り向いて確かめることもできない。視線を前方180℃に見据え、気ままを装う私に海は近づく。前に進むことしか出来ない私に、海は容赦なく近づく。
 波打ち際に辿りつき、そっと足先で薄く平たい波を突ついてみても、やっぱりさっぱりわからない。本当はしんみり海を見たいが、連れのために(そしてもちろん自意識のために)無邪気にはしゃいでみせようと思うのか。それとも本当はむしゃぶりつくような勢いではしゃぎたいのに、連れの目を気にしてそうできないのか。どうしたいのさと思いながら、すすすと寄ってくる波から中途半端によろよろ逃げる。胸の内を見透かされないように、気ままで勝手な私は海に集中したふりをする。にわわと広がり消えゆく海の端で、自意識と陶酔が互いを侵蝕し合っている。
 海は気苦労が絶えない。戻ろうか、と言われると少しほっとする。好きかどうかもよくわからない。なのにほとぼりさめればまたあの際に、身を置きたいと思ってしまう。 
 































SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送