そっと運命に出逢い運命に笑う 曇り空にももう飽きたけれど、僕の心の温度はとりあえず一定に保たれる。 玄関の横に立掛けられた透明のビニール傘の束から一本取り出す。傘にも人にも思い入れを少なくしようとしている僕にビニール傘はうってつけだ。 いつもの曲がり角。どこかの家の庭先に薄い橙色の実がいくつもなっている。傘をさしながらでも周りが見えるなんてやっぱりすばらしい発明だよ、なんて思いながらよくよく目を凝らすと、それは枇杷だった。 枇杷は今の時期にこんなにいっぱいなるのだな。うん、枇杷は好きだ。一人で暮らしていると口にする機会はさっぱりないけど、多分そんなところが好きだ。幼い頃に食べたザクロやアケビのようなノスタルジックな雰囲気にやられてしまう。ジャンプすればひとつふたつ簡単に手に入れられそうだったが、近所の家から無花果を取って帰ってきた僕をおばあちゃんが泣いて叱ったっけ と思い出し、気恥ずかしくなってやめた。ああ、そうだ。桑の実も食べたいなぁ。そんなことを考えながら近所のモスへ入る。さっき買ったばかりのエロ雑誌を読み、いつもうまく食べることのできないモスバーガーのミートソースで今日も悪戦苦闘し、煙草を吸う。 窓の外を見下ろすと、道ゆく人々の傘は紫陽花の花のようだった。今まで気にもとめなかったが、向かいの店はどこにでもある文房具店のようだ。 モスを出て、何の気なしにまっすぐ向かいへ足を踏み入れてみる。今更ノートなど買わない僕を、やっぱりそこはノスタルジックな空気で迎えた。ひとつひとつ丹念に見てまわる。画材の匂いに安心感を憶える。 絵を描かなくなってからどれくらい経つのか。もう僕の家には鉛筆も、消しゴムすらない。ケント紙に指を触れた。懐かしい感触だった。そのまま数枚手に取り、鉛筆と消しゴム、そして小さな鉛筆削りを選びレジへ向かう。 大したものは描けない。描けるかどうかさえ分からない。それでもこんな気分は悪くなかった。何を描こうかなぁ…と大袈裟に思いを馳せ、手の中にある袋を濡らさないように胸に抱えながら歩いた。 最近絵も観ていない。あの実家の隣の美術館へ最後に行ったのはいつだったろう。 多分19の頃。彼女と観たルノアール展が最後だ。 彼女は絵が好きだと言った。彼女は僕がその当時つきあっていた子の友達だった。シンクロするカテゴリと刹那的な彼女の生き方は僕の興味を惹くのに充分だったし、お互い相手がいたことなど少しも気にならなかった。恥ずかしい話だが、僕は確信していたのだ。そしてその通りになった時、僕は(ほらな)と心の中で笑った。 「少しだけ色盲なの」 絵を眺めながら彼女は言った。そんなこと全く知らなかった僕は何と返したらいいのか分からず、絵から視線を逸らすこともなくただ黙っていた。 「緑がうまく見えないみたい」 ロビーで大学の教授と偶然会い立ち話を始めた彼女を残して外へ出た。 煙草が嫌いな彼女に合わせ吸うのをやめていた僕は手持ち無沙汰になり、ベンチに腰掛けぼんやりとしていた。 彼女の世界はどんな風に映っているのだろう。彼女が正しく見えていないと言った色を僕はこうだとうまく説明できないし、彼女だってこの色がこう見えるなんて言えるはずもない。だいいち色なんてみんな同じに見えているのか。僕に映っている世界も本当は違うのかもしれないし。そう考えると色々なことが全て不確かに思えた。だけど医者から言われたのなら、明らかに彼女の目には自分と違う世界が映るのだろう。僕はそれが見たかった。共有することのできないその世界をどうしても見たいと強く思った。 頭上には燕の巣があり、親が雛鳥に餌を運んでいた。ピャーピャーと欲しいものを素直に強請る雛たちに、何度も何度も。 彼女はよく東京で暮らしたいと言った。そして僕は東京にだけは住みたくないと答えた。夏休み中何も言わずに音信不通になり、突然僕の家にハーゲンダッツのアイスを送りつけた。添えてあった瑞々しい苺の絵葉書には綺麗な字で 今 東京にいます と書かれてあった。僕は何故東京からアイスを送る必要があるのかと考えながら、大き目のカップを抱え込み直接スプーンを突き刺して食べた。 別れてからニ度ほど、僕らは偶然出会った。一度目は彼女がバイトをしていたコンビニで。二度目は僕がバイトをしていた居酒屋で。相変わらずお互い相手がいた僕らはそ知らぬ顔で通り過ぎたけど、二度目の再会で僕は確信していたのだ。彼女が後日連絡してくるだろう、と。そしてその2日後に、僕はやっぱり(ほらな)と笑った。 彼女は今どこにいるのだろう。同じ東京の空の下にいるのだろうか。いや、暮らしたいと言った彼女はきっとまだノスタルジアな空の下だ。暮らしたくないと言った僕だけ何故かここにいる。 彼女の描く絵を、色彩を、せめて一度は見たかったなと僕は思った。 |
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