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幸せの情景
 
 朝の山の手を半周したところで電車から吐き出された僕は、カバンの底でくしゃくしゃに丸まっていた地図を取り出した。迷わないよう夜のうちに自分で書いたものだ。
 腕時計を見やると約束の時間から5分経過している。僕は携帯電話を開き、この街の遠くない場所でパソコンを立ち上げてるであろう事務の女の子に「道に迷ってしまった。急いでそちらに向かう」と告げた。
 そう、僕は迷ってしまったのだ。
 さっき口にした言葉を今度は自分に向けて反芻し、立ち止まって煙草に火をつける。思わぬ方向へ進む自分を想像しながら、地図を片手にゆっくりと間違いなく細い路地を進む。
 慶應仲通り商店街 と僕の汚い字で書き殴られたこの道には、シャッターで閉ざされた飲み屋と積み重ねられたゴミ袋ばかり並んでいた。
 
 ここ数日を思い返してみても、脳裏には何一つ情景が浮かんでこない。目粉しい世界と引き換えに失うものは、粗方自分が予想していた通りのようだ。その分得るものももちろんあるのだが、まだ僕にはその代償が大き過ぎる。
 何もなかったのだろうか。心臓が静かに締めつけられるような、自分がどこに立っているのか分からなくなるような一瞬は。
 おとといビルの7階の非常階段から見た夕暮れ。闇に推移されてゆく総武線。
 そこまで何とか記憶を辿ったところで、僕の身体は一歩の相違もなく目的地に着いていた。
 
 自分のものではない慣れない拘束という時間から解放され、僕はわりと心地よい小さな溜息をつく。手で書いた地図は思ったよりもこの街を身体で憶えさせる力があった。知っている街を歩くような気分で朝とは別の道を選ぶ。この路地をまっすぐ行くとどこへ出るかも予想がつく。街の活動時間は今からのようで、朝とは別の顔をしていた。
 板蕎麦 地酒 おでん そんな暖簾に足を止める。この界隈を僕は好きかもしれないと思う。
 道は狭く、所々に古い昭和初期を思わせる風情の家屋を見かける。違和感なく佇んでいるその情景は無造作に僕の中に入り込む。この感覚は何だろう。頭で考えるより先に網膜に焼きついてしまうような、自分が直感で生きていると錯覚してしまうような瞬間。
 路地に直接平行した戸の脇には朝顔の蔦が伸びていた。立掛けられた細い棒を伝いながら紫がかった青の花を幾つか咲かせ、二階の手摺りに隈なく絡みつき、それでも飽き足らず電線へと手を伸ばす。そんな光景を随分貪欲なんだな、と呆れた顔で眺めてみたが、しばらくそこを動く気になれなかった。
 窓は開け放たれているのか、簾がかかっている。あそこからビールを片手に煙草を吸い、ぼんやりと空を眺められたらどんなに素敵だろう。今は晴れているけど、夕立がくるのもいいかもしれない。
 それが自分の思い描く一番の幸せな情景なのだな、と僕は今更気づく。まだ大丈夫だ。朧げな安堵の気持ちを胸に、僕は再び駅へ向かって歩き出した。
 






























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