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瞬きの瞬間だった
 
 僕は彼女を疎んでいた。いつも憂苦など知らぬといった自信に満ちた顔つきをし、合理的に物事が運ぶことを好む、僕とはまた別のリアリストだった。彼女の微笑みは全て嘲笑に映り、目の奥には人を蔑んだ冷やかな光が宿っていると感じた。僕は彼女と常に一定の距離を保ち、路傍の人を装いながら見澄ましていたのだ。
 
 シフト勤務の僕たちは個人個人で休みが違う。
「アシタヒマダカラドライブニイコウ」
 偶然休みが合致する前の晩、彼女から届けられた不躾なメール。僕は彼女と二人きりになることを意識的に避けていた。なついているような素振りは村雨のようにさぁっと通り過ぎ、形のいい唇から諸刃で肌を撫でるような言葉が吐き出される。自分へ真っ直ぐ向かう鋭い刃先を想像することは、僕の気持ちを萎えさせるのに十分だった。掠り傷で済むとは到底思えない。ずっとそれを懸念していた。
「ウミデモミニイキマスカ」
 何を思ってそんな返事をしたのか僕は今でも解からない。それはただの気まぐれだったとしか。
 
 無造作に着こなされた彼女の白いTシャツが翠緑の風にはたはたと音をたてる。空は貫けるような青とまではいかなかったが、薄藍色の彼方に雲がたなびいていた。海へ続くこの道の視界はひらけていて、僕たちの他に向かう者は見当たらない。僕はハンドルを握りながら、目の端に映る彼女のきれいな鼻の稜線を意識した。
 何度も通ったことのある道だった。車で1時間もかからない場所だから、きっと彼女だって通ったことはあるだろう。僕は真っ直ぐ前を見据え直し、故意にアクセルを踏みこむ。景色が車体を中心に流線型を描く。突然上がったスピードに気づいた彼女が僕に視線を投げかけた時、道の大きく起伏したところで僕たちは車ごと宙を飛んだ。ジェットコースターが下降する瞬間の浮遊感。長い空白。堕ちてゆく時間の中で、彼女の息をのむ音が聞こえた気がした。
 前にのめるくらいの衝撃の後、僕は何もなかったふうにそのまま車を走らせる。彼女を見遣ると蒼然とした顔色でうまく口がきけないようだった。
「あの場所ではいつもあれをやるんだ」
 笑いながら僕が言うと、彼女はやっと息を吐いてシートに沈みこんだ。両手を口に当て
「びっくりした…」
 と呟く彼女の声を聞いたとき、にわかにある衝動が頭を掠めた。
 彼女を泣かせてやりたい。
 潮風に揺蕩いながら、確かに僕はそう思った。
 
 水の中に入るにはまだ肌寒いこの季節の海はほとんど誰もいなかった。海岸線に沿って走る道を奥まで進む。海を見る彼女は案外うれしそうで、僕はまんざらでもなかった。
 好奇心から車のまま砂浜へ入る。砂にハンドルをとられそうになる感覚が面白くていたずらに走らせる僕に
「調子に乗ってるとはまるんだから」
 と彼女が笑う。
「はまって帰れなくなろう」
 冗談のつもりでそう答えた僕の耳にタイヤの空回る音。
「え、はまったの?」
「あー…はまった」
 ちょっと見てみるよ、と砂浜におりるとタイヤは半分近く砂に埋もれていた。とりあえず掘り出そうとしゃがみ込んだ僕の後ろにいつの間にか彼女が立っている。何か辛辣なことでも言われるのかと身構えたが、彼女は鼻歌など歌い出しそうな顔つきで砂を掻きはじめただけだった。
 砂をどけ、周りを少し踏み固めてアクセルを踏む。トランクに放り込んだままだったシートを広げ、タイヤの下に挿しこむ。だけど車は一向に進む気配を見せず、タイヤはどんどん深くなる穴にはまる一方だった。
 5度目のチャレンジも失敗に終えた僕たちを薄暮が包みはじめる。夜盲の僕はさすがに危機感を感じ始めていたが、彼女は焦るでもなく
「本当に帰れないかもね」
 と歌うように言った。
 携帯には圏外の文字。
「絶対動かしてみせる」
 ロボットみたいに言い続ける常套句。
 
 彼女は飽きもせず琥珀色のアールグレイを飲んでいる。
「スタートレックって知ってる?ピカード艦長はいつもアールグレイを飲んでるの。あれはSFと言うより人間ドラマよ」
 僕はスクリーンに映し出されたワールドカップの行く末を横目に曖昧に頷く。
 あれから車は、偶然通りかかったカップルと車によって救出された。林間学校から家へ帰る時のような心地よい疲れと安堵。僕たちはファミレスの硬いソファにもう2時間も座っている。
「泣くかと思った」
 何のことか解からないといったふうに彼女は頬杖をはずす。
「あの時泣かれたらどうしようかと思った。あのまま車が動かなかったらどうしてた?」
「あんなことでどうして泣くの?どうにかなると思ってたから。帰れるにしろ帰れないにしろ」
 相変わらずの傲慢さで少し顎を上げ彼女は澄ました。
 彼女のアパート前には冬には登れないような短い急な坂があった。その坂の下に車を止めると彼女はありがとう、と言った。楽しかったと続ける素直な彼女に僕は揶揄する言葉を飲み込んだ。
 急に頭を白紙に戻してしまった僕は、歯が痛いなどと支離滅裂なことを言う。
「痛くなくなる魔法かけてあげようか」
 呪文でも唱えるのかと間抜けな顔をした瞬間彼女の顔が近づき僕は視界を失った。坂を登りきる彼女の姿が見えなくなるまで、ずっと僕は間の抜けた顔をしていたと思う。
 
 僕より3つ歳下の彼女は嘘を見抜くことと意図的に人を傷つけることに長けていた。感情的に罵ることを押さえ、より効果的に精神的ダメージを負わせるかに重点をおき、頭の中で言葉を並び替え、脈拍が乱れるのを眺めているかのようだった。
 そのくせ時に、僕が恥ずかしくなるような無防備な表現をする。その度に僕は彼女を強く抱きしめて、へし折ってしまいたいような感情にかられた。老成の中に無邪気さを混在させている彼女に、胸がしめつけられるような愛しさと唇を噛むような嫉妬を感じていた。僕は彼女を泣かせてみたかった。
 僕たちのつきあいはどこにでもいる恋人たちそのものだった。二人でレンタルビデオを借りに行ったり、コインランドリーの乾燥機の前で並んで雑誌を読みながら待ったり、時には吐露し時には窺う、そんなありふれたものだった。
 お互いの融解点が見えなくなった頃、僕は決心した。これが最後の賭けだ。
「別れよう」
 その言葉に彼女は顔をあげ、そうだね、と弱々しく微笑んだ。僕は見逃すまいと彼女の目をじっと見つめたが、そこには凛とした光が宿っているだけだった。
「キスしようか」
「いいよ」
 25ヶ月の彼女の魔法がとけると同時に、鋭い痛みが鼻を撲つのを僕は感じていた。
 






























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