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落花流水
 
 雨はガラスの向こう側の壁を強く打ちつけては雨垂れとなって落ちる。滴の描く白い線は鳴り止まないピアノの弦のようだ。
 うまく調節のきかない屋外プールのシャワーみたいな雨を眺めながら、私はまた思い出していた。それは感傷というよりも条件反射に近い。
 
 彼は雨夜に自転車で私の家へやってくる。借りたばかりの古いアパート。室内の壁は板張りで、天井も爪先立ちで腕を伸ばせば手が届くほど低い。
 チャイムなど当然ついてないドアがゆっくりと2回ノックされる。ドアを開くとびしょ濡れの彼が人懐っこい笑顔で立っている。
「こんばんは」
 くちびるから八重歯が覗く。私は彼の笑った顔が好きだった。
 私は昼に喫茶店でウェイトレスのバイトをし、彼は夜に寿司やでバイトをしていた。客足の途絶える雨の夜に、彼はふらりと現れる。家の近くで自転車を盗み、20キロ先の私の町で乗り捨てる。髪の先から水を滴らせながらいつも決まって「こんばんは」と言う。
 水と一緒にプレパラートに挟まってる微生物のような人だった。水に浸透し、何を考えているのか到底解からなくて、力加減を間違えればぷちんと潰してしまうような気がした。
 
 この夜も彼は雨粒を携えしっとりと邪気のない顔で笑っていた。部屋に入る前にぷるぷると頭を振る姿は、まるで散歩から帰ってきた犬みたいだ。
 違和感なく空気に馴染み、TVから流れていたラピュタに私の隣で最初から見ている風な顔をする。シータとパズーがパンに目玉焼きをのせて食べている。そういえばこの人がものを食べているところをあまり見たことがないなぁと思う。痩せすぎだし身長もあまり私と変わらない。
 飲み物くらい出そうかと立ちあがったその瞬間、切り裂くような甲高い音がした。部屋は真っ暗になり、ラピュタがシアターのように映し出される。思いがけないことが起こった時特有の時間の流れ。視覚、聴覚、触覚で感じたものを白い頭の中で繋ぎ合わせようとする。ちらちらと変わる映像の光にゆっくりと頭を上げる彼の姿が浮かぶ。
 蛍光灯が落ちたのだ。しかも彼の頭の上に。
「どうしよう」
 自分の声で動揺しているのがはっきり解かった。彼の近くへ寄ろうとする私に、彼は
「破片が飛んでるから危ないよ」
 と言った。
「大丈夫、大丈夫」
 涼しい顔でそう繰り返しガラスを集める彼をただ唖然と見つめる。アンドロイドという言葉が頭を過ぎったその時、頭から流れる一筋の血が見えた。
「血… 病院!」
「大丈夫だよ。大したことない。それに俺、病院嫌いー」
 やっぱりこの人は人間だ。そんな当たり前のことを確認した安堵感からか、やっと私の頭は働き始めた。
 隅にあったライトをつけ、砕け散った蛍光灯の欠片をつまむ。
「ねぇ病院に行こうよ」
 髪をかきあげた彼の指からぱらぱらと細かい残骸が落ちる。
「俺は大丈夫。それより落ちたのが俺の上でよかった」
 泣き出しそうな私の顔を覗きこみ、少し首をかしげてやわらかく笑う。私は無力だ。いざというときにさっぱり役に立たない。コインランドリーが閉まって途方に暮れていたときも、乾燥機から私の服を救出してくれたのは彼だった。
「あのさ、シャワー借りていい?」
 血が流れているのに水に浸かっていいのだろうか。
「細かい破片を落としたいんだ」
 流れる水の音を聞きながら欠片の縁を指でなぞる。力を入れれば音も痛みもなく簡単に肉は切り裂かれそうだ。自分の血なら大丈夫なのにな。あまり見ることのない他人の血の色を思い身体の奥がひんやりする。
 シャワーから出た彼はいい匂いがした。Tシャツには点々と錆色になった血の跡が残っている。彼の頭をバスタオルで包むように拭きながら私は震撼した。
「もしかして…頭洗ったの?」
 彼は あ、と今更気づいた風を装って
「怪我してたの忘れてた」
 と子供みたいに笑った。私を安心させる為だけの彼の演技。私は呆れたふりをして小さく溜息をつく。鼻の奥がつんと痛くなる。
 髪をそっとかき分けてみると傷口は思ったほど大きくなかった。私は湿った頭に鼻をつけ、傷がこのまま消えなければいいのにと思った。
 






























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