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正しいものはこれじゃなくても
 
 2週間の潜伏期間を経て、私のだらけ切った身体は突然蝕まれた。鼻から口、喉にかけての風邪の味とどうしようもない心細さ。冷たいポカリスエットが浸み込んでゆくのを感じながら朝方打ったメール。ぼんやりと熱っぽい頭で考えることは碌なものじゃない。私は彼の気持ちにつけこんでいるのだ。
 
 掠れた声で「外へ出たい」と言った私を、彼は車で2時間かけて迎えに来た。額にあてられた手にいつもの居心地の悪さはない。「寂しくなったの?」という問いに素直に頷くそんな自分をいよいよおかしくなったなと思いながら、これは熱のせいだと付け加える。温かい食べ物という曖昧な目的と生温い優しさを乗せて車は走り出す。ずるい感情の出し方。強がったり弱みを見せたりする具合を不器用を装って計算しているのだ。今の自分にとって心地良い言葉や距離を彼に求めているのは明白だった。いや、そんなことは朝から分かっていたはずだ。
 
 行き先を定めなかった私たちはどこにでもあるファミレスで食事をした。彼は地図で今いる場所を確かめた後、程近い公園へ行ってみようと言った。ナビゲータとしての私の無能さを責めることなく、彼は気を使いながらぽつぽつと話題を振ってくれる。私の名前を彼女と呼び間違えた彼に笑いはすれど、腹立たしさは少しも感じない。そんな自分に気づき、うっすらとした嫌悪を覚える。車はセンスのない懐かしさにも似た商店街の街灯をくぐり、民家の密集する入り組んだ路地で止まった。
 
 「〜の森公園」控えめに掲げられた看板の先は何も見えない。歩き出す彼の手が、私に向かって差し出される。躊躇したのはほんの一瞬で、私はその手を握りかえす。薄ぼんやりとした月明かりだけを頼りに斜面を登り、慣れない手を繋ぐという行為に時折思考を奪われながらも、私は今まで想像さえしていなかった彼の恋人のことを考えていた。彼女は彼のことを本当に好きなのだと思う。彼の自信過剰さを差し引いたとしても、多分間違いないだろう。そして彼女は引け目を感じている。それは私が感じたことのある種類の引け目。傾いてしまった秤に顔色を窺う不安げな上目遣い。そんなことを容易に想像してから、彼女に自分を投影し過ぎたかもしれないと見つめた足元の視線を逸らす。丸太の連なった簡素な造りの階段を登り切ると、猫の額ほどの平坦な場所がここで終わりと告げていた。どちらからともなく手を離し、樹で覆われた切れ切れの空を仰ぐ。ささやかな光だけが見える。
 来た道を引き返す私たちは当然のようにまた手を繋ぐ。今私が君を必要だと言ったら彼はどうするだろう。そして彼女は?手から伝わる彼の体温を感じながら、とても残酷な空想をする。自分の気まぐれによって散々引っ掻きまわした世界を造りあげ、そこに自分が振られる選択肢がないことに気づく。自信過剰で傲慢な世界。一体何を根拠に?
 
 そろそろ彼を元の場所へ返さなくては。暗い車内でぼんやりと思う。「ひとつお願いがあるんだけど」彼の言葉に我に返り、反射的になに?と答える。「キスしていい?」見たことのない彼女が脳裏を掠める。自分の投影された彼女。私は戸惑うふりをする。その科白は予測できたはずだ。そんな彼の性格を見越して私はメールを書いたんじゃないのか。色んなことが頭を過ぎる。唇が触れる瞬間まで。君も私も刹那的に生き過ぎだ。何だか少し乱暴な気分になったが彼のキスはとても優しくて、がさつな自分と乾いた唇を恥ずかしく思った。閉じた瞼にじんわりと熱がこもっているのを感じる。
 君と私はきっと似ている。失う痛みを知りながら、繰り返される傲慢と刹那。解かっていると口にしながら考えるのは試すことばかり。だけど本当はそんな私の考えも君には最初からお見通しで、今日は私の呆れた茶番につきあってくれただけかもしれない。「もし具合が悪くなって近くに頼る人がいなかったら、夜中でもいいから俺を呼んで」ドラマみたいな科白にくすくす笑うと「笑うなよ」と拗ねた口調。「ありがとう」と発したその言葉は、夜の闇に掻き消された。
 


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