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甘い手
 
 冷たい手足はバスタブの中でじんわり痺れてゆるゆる溶けた。美和子は薄緑の水の中に身を潜め、水面がぴんと張り詰めるのを待つ。鼓動さえ聴こえないよう息を殺し、堅く結ばれた口元は、心と同様、波立つのを強く拒絶しているかのようだった。
 爪先は朱に近いオレンジで塗り潰されている。静かな水の中に留まった手は、ゼリーで包まれた果物のように見える。毒々しいほど健康的に彩られたこの手こそ自分に一番似つかわしくないものだ、と美和子は思った。
 二度塗りされた爪は、いつでも重く、息苦しい。
 そっと呼吸をするように人差指を出す。くっと鉤形に曲げ滑らかな水面を叩く。すっと広がった水の輪を見て、美和子は溜息を吐いた。そのフォルムを、完璧だ、と思った。ゆっくり弾く指の速度をあげると、何枚もの水の皿が積み重ねられた。決して同じ大きさではない、でも確実に同じ種類の皿。
 
 美和子の耳は完璧ではなかった。聴覚テストでひっかかることはなかったが、聴き取れない周波数が確かにあると感じていた。
 母親の声がそうだ。恐ろしいほど静かに話す彼女の声は、美和子の頭で言葉として組み立てられることが少なかった。集中すればするほど何を言っているのか解からない。何度も聞き返す自分に罪悪感を感じ、彼女もまたそんな美和子に苛立ちを感じる。短い沈黙。そして溜息。
「何でもないわ」
 その言葉で終了する会話を美和子は恐れた。それを聴きたくない一心で、いつしか美和子は曖昧に頷くことを覚えた。悟られないよう用心しながら出来るだけ曖昧に相槌を打つ。呆れられることに怯えた美和子は、彼女とのコミュニケーションを諦めた。
 いつだったか、母に木下を紹介したことがある。彼女は木下にさっぱり興味がなさそうだった。
「美和子の母親って植物みたいな人だね」
 帰りのバスの中、他愛のない話をしていた木下は、突然思い出したようにそう言った。
 
 指先から落ちる滴の所為で、水面にはいくつもの輪が浮かんでは消えた。大袈裟に水沫が爆ぜることもなく、静かに広がり、ぶつかり、重なり、交わる。それは空気中を伝わり響く、小さな音のようだった。
 手を沈め、静寂が来るのを待つ。顎まで水に浸かり水中の果物を見つめる。
「一緒に生きていこうとは思わないね。一緒に死のうと思わせる女だ」
 自分を抱いたまま木下が言った言葉。諦めの色を湛えた美和子の目をじっと見つめ、ゆっくりと、口の中で確かめるように。
 甘い爪先は相変わらず美和子に溶け込むことなく、生命力溢れる別の物として存在していた。そしてそのことが、何故か美和子を苛立たせた。
 甘い色、甘いデザート、甘い言葉、甘い雰囲気。何もかもに居心地の悪さを感じる。それらが美和子に似合わないことは、美和子が一番よく知っていた。
 私は恋に命をかけようと思わない。水面が波立ち、不穏に揺らめく。初めて美和子は自分が声を出していたことに気づく。それは木下への答えだった。
 


































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