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鼠色の風景
 
 タクシーに乗り込み二つ程先の駅名を告げる。
「○○駅だったら反対方向ですよね。今Uターンしますね」
「あ、そうですね。お願いします」
 人の良さそうな乗務員の声に安堵したのか、自分の気持ちと声が幾分和らいだ気がした。自分の意思でタクシーを留めたのはこれで4度目か。もちろんそれはこちらに来てからの話だ。
 タクシーに乗る、という行為に随分と臆病になった。地下鉄での移動は一向に「東京」の距離間を掴ませてくれなかったし、どんな道路がどう巡ってどこへ繋がるのか、私にはさっぱり分からない。距離も道路事情も方向も知らぬまま、悠長に上がり続けるメーターを眺める懐の深さなんて、私は持ち合わせていなかった。それに、告げた目的地を知らぬと言われたら、一体何と補足すればよいのか。
 今日の行く先は山の手の駅。知らないはずはないと見越した上での乗車だ。うん、問題なさそうだな。そう思い、シートの背に凭れようと力を抜きかけた私に、乗務員の何気ない声が届く。
「北口、南口、どちらで降りますか?」
 緩めた腹筋にまた力がこもる。迂闊だった。頭に駅前の風景は浮かぶのだが、何口かまでは出てこない。
「えぇ、あー…タクシープールのある方…」
「どちらにもあるんですよ」
「…ですよね。あの、ロイヤルホストのあるところなんですが…」
「ロイヤルホスト…」
 今、乗務員の頭の中には映像があるはずだ。
「北口ですね」
 スライド式に切り替わるいくつかの映像が、私の思い描いていた風景にカチリと重なったような気がした。彼の口から出た具体的な場所に安心した私は、恐る恐る重心を動かし姿勢を崩す。やっとこれで窓の外の風景に専念できそうだ。
 
 横に広がり続いてゆく商店街を眺めながら、おかしいな、と首を捻った。夕暮れと共に蛇腹のシャッターで閉ざされるであろう、どこにでもある商店街だ。閑散とした人通りも独特の街灯の明かりも、すでに私の知っているものだった。それでも釈然としない気持ちは、アイスティーへ注ぐシロップのように、底へ深く沈んだまま揺らめいている。生温い風に頬を撫でられたみたいだな… そう思うと同時に私はその訳に気づいた。枝垂れ柳の所為、だ。
 鼠色の街に沿って規則的に植えられた街路樹の全ては、まだ葉も色も落とし切っていない枝垂れ柳だった。薄気味悪いと感じた訳は、そこから幽霊でも想像したのだろう。解き明かしてしまえば意外と安直な自分の思考に、思わず溜息にも似た笑いが漏れる。そして、柳は常緑高木だったろうか、と考える。落葉高木だった気もするが、その記憶に自信が持てないほど、薄緑の葉は枝を覆い鼠色に溶け込んでいた。
 水際ではない場所、冬という季節。それだけで柳の立姿は異様に映った。誰かに似ている。…坂本龍一ってところか。もっと言い得た人物はいると思ったが、味のないガムをいつまでも噛んでいるような気分になり、途中で考えるのをやめた。
 タクシーは律儀にロイヤルホストの前でとまった。
 
 甘いエプロン姿のウェイトレスは、愛想よく一番奥の角席へ私を通した。
 コートを脱ぎ、鞄から煙草と読みかけの文庫本を取り出す。右手の窓から見える景色はつまらないものだったが、夕食がてら読書に来た私にとっては絶好のロケーションだ。手早く注文を告げ、まだ物語の輪郭もなぞれていない数ページ目を開く。
 作風としてはミステリーだろう。主人公が大学生の所為か、思ったほど急かされた話の進み方ではない。むしろ、もんじゃ焼きの土手のようにくどいほど周りを固めるので、これが真理、と目の前に突き出されることを好む私は、いつまで経ってもそれが歯痒かった。もちろん推理を誘導しているのだから、初めに答を明かす訳もない。古畑任三郎じゃあるまいし。伏線、伏線、の文章群から神経を研ぎ澄まし読み取る力。私が面倒臭がっているのはこの辺りだ。
 それでもストーリーの端々に、はっとする表現はあった。webの中でもうまいなぁと感心する表現に出会うことは多々ある。けれどやはりこちらはプロだ。お世辞にも好きな作家とは言えないが、その文章力はさすがとしか言いようがない。ひとつ何気ないことを表現する為にも、私には思い浮かばない言葉が連ねられる。そして確実に伝わってくる。一冊書き上げる為にどれだけアンテナを張っていればいいのか。そう考えると気が遠くなってしまう。
 それともわりあい簡単に、言葉は紡ぎだされるのだろうか。だったら私は物を書くことに向いていない。
 私は文章の土台をさっぱり知らない。基礎というものを勉強したことがないし、本を読んで察するほど勘も良くない。一貫したテーマも持たせず、散文ばかり書いている。手法とか技巧とか、文を書くことに大きな決まり事があるのだとしたら、知っておきたいとは思う。だけど知ることによって、なくしてしまう何かがあるような気がしてならない。
 宙に浮かんだ虹色のシャボン玉を手に入れようと腕を広げた瞬間にパチンッパチンッと指先で割れてしまうような、そんな取り返しのつかない何かが。
 もっともこれは、考え過ぎで臆病で面倒臭がりな私の言い訳なのだが。
 
 ―
本に囲まれた研究室にコーヒーの香りが広がった。
 その一文に、驚くくらいはっきりと情景が浮かび上がった。モノクロのストーリーの一場面にだけ色がついた感覚に似ていたが、実際はそれの逆で、色彩の中に鼠色の「研究室」が入り込んできた。コーヒーの香りが広がると、そこはセピア色に変化した。
 父の研究室だ、と気づいた。中身のびっしり詰まった天井に届くような本棚が衝立のように列を作っている。本が幾層にも積み重ねられ、机の端で土砂崩れを起こしている。小さい私は無表情でクリープの入ったコーヒーが冷めるのを待っている。
 浮かび上がるのはそういう種類のもので、どういう手順でとか何の為にとか、とにかく幼い私がそこに居るそもそもの理由めいたものは、いくら記憶を探っても出てこない。
 四角いコンクリートの塊を一旦左側から見上げ、裏口のような怪しい戸の鍵を開けた父の背中を追うと、薄暗い廊下が見えないくらいに続いている。音のひとつひとつが立ち竦みたくなるくらい響き渡り、鼠色の隅々に染み込む。照明をつけても青白く、空気は湿っていた。小さな私はいつも悪いことをしているような気持ちでずっと顔を強張らせていた。大学ってところは気味が悪くて好きじゃない、と思った。あそこに「明るいキャンパスライフ」のようなものがあるなんて、私は今でも想像できない。
 枝垂れ柳の立並んだ商店街。あれは向こうまで続く薄暗い廊下に似ていた。あの廊下にも、建物の周りにも、しなやかに垂らされた緑の糸は鼠色にうまく溶け込みよく似合うだろう。
 私は暫く廊下沿いに並ぶ柳の様を思い描いていたが、ふと坂本龍一に置き換えてみたくなった。
 廊下に等間隔に並ぶ坂本龍一。
 笑えるどころか妙にしっくり馴染んでいる。何だかつまらない、と思ったすぐ後に、私は理由を知った。それは、坂本龍一が「教授」だから、だ。
 まったく考え方までミステリーがかってきた。それもB級の。
 


































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