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海へ出た
 
 
 また海だ、と思った。
 きっと男の人は、海を見ると隣の異性に好意を持たずにいられなくなる生き物なのだ。ずっと海を見ていると何かおかしな力が働いて、キスしたり愛の言葉を囁いたりしたくなるのだ。繰り返し繰り返し、寄せては返す波のように。
 大体何でこんなことになっているんだろう。そう思って隣の貴志を見た。貴志は首を90℃きっちり回してこちらを見ていた。生殺しの人間など見たことはないけど、きっとこんな顔をしているのだろうと思った。真上から照りつける太陽の光に細い目をますます細め、それが苦しそうに見えるのだった。上昇しているのは座っているコンクリートの温度であって自分ではない。

 
 
 3日前、バイト中に小さな紙切れを渡された。海の向こう側で上がる花火を見に行こうという内容だった。すでにバイトが入っていたので断った。貴志はしょうがないねと言って笑った。笑うと口元から尖った八重歯が現れ、たいそう人の良い顔になった。
 花火が上がっている頃、私は同じ場所でいつもと同じ作業をしていた。繰り返し繰り返し、お金を入れたり出したりした。貴志もいつもと同じ作業をしていた。繰り返し繰り返し、店と私の間を行ったり来たりした。特に喋ることはなかった。花火のことも忘れていた。
 賄いを食べお疲れ様でしたと外へ出ると貴志が急いでやってきて、先に帰っちゃったかと思って急いで来たとそのままなことを言った。家が近いので何度か一緒に帰っていたが、別に約束をしている訳ではなかった。一緒に帰る為に私は自転車をひっぱらなくてはいけなかったし、貴志は原付をひっぱることになるので、二人で帰る行為そのものが全く合理的じゃない。そんな合理的じゃないことを貴志にさせる原動力が何なのか、もちろん私は気づいていたのだけど知らないふりをした。
 私は貴志の住むアパートの前で足を止めた。いつも貴志は自分の家に気づかない風な顔をして通り過ぎ、500m先のセブンイレブン(そこから徒歩1分で私の家なのだ)まで送ってくれるのだが、今日は結構ですという意味を込めて立ち止まった。貴志は少し先で振り返り不思議そうな顔をしたが、すぐ意味がわかったようで後ずさりで戻ってきた。
「あ、お茶でも飲んでく?」と貴志はアパートを仰ぎながら言った。
 私の「一人で帰れますオーラ」は「あなたの部屋を見てみたいなオーラ」と取り違えられたようだった。私は奥ゆかしき日本女性として、ここで貴志に恥をかかせてはと思いずるずる後をついていった。
 で、何でこんなことになっているんだっけ?膝の上のバッグに視線を落とし、さっきと同じ疑問を繰り返す。べったりとしたゆるい潮風は伸ばしかけの髪を弄んでいる。さっきから今までどのくらいの時間が経ったのか見当がつかない。長く感じたけれど、案外0.5秒ほどだったかもしれない。貴志はまだこちらを見ているだろうか。
 
 
 生真面目に出されたお茶を飲んでいると、バイクの後ろに乗ってみる?と誘われた。自ら乗りたいとは思わなかったが、誘う言葉から買ったばかりのバイクに誰かを乗せてみたいという気持ちが滲み出ていて、じゃぁちょっとだけ、と答えた。灰色のカバーの中には油を塗ったカブトムシみたいにつやつやした真っ赤な車体が入っていた。「CB400SF」というバイクらしい。
 実は自転車の後ろにも乗れないのだった。制服姿で自転車の後ろに横乗りして下校、なんてとんでもないことが流行らなかった高校時代に感謝したい。だからうまく乗れないはずなのだが、シートを跨ぐとすっぽりうまく空間にはまってしまった。丁寧に足の置場も付いていて、走り出しても安定している。貴志の身体に腕を回し自我を放棄してしまえば、なんとも気持ちの良い乗り物だった。夜明けの薄暗さも手伝って、何も考えずに貴志とひとつの塊になった。それでうっとりとしているうちに、いつの間にか海へ出ていた。
 

 いくら何でも黙りすぎだと思った。場を繋ぐために、んー・・・と声を出してみた。動いているのかいないのかわからなくなっていた二人の時間が、漸く世間並に動いたようだった。
 どうしよう、と言ってみた。言いながら貴志の顔を窺った。視線は海に濯がれていたが、息を止めているような、相変わらず苦しい顔をしていた。ちょっとおかしかったので、暫くあーとかうーとか言った。それでも貴志は呼吸せず、じっと神妙な顔つきをしていた。ずっとこのまま返事をしなかったら死んでしまうんじゃないかしら。でもあのバイクの後ろでもう一度くったりしたい。いや、どうせなら二度三度。
 欲が出た。空を見据え、息を吐くようにまぁいいかと言った。
「つきあってください」に対しての「まぁいいか」なのだった。
 
 
 
 バイト先から歩く帰り道電柱にぶつかった。
 道の端を歩いている貴志に道の端から話しかけていたら、それはうまい具合にぶつかった。お手本のようだったと後で貴志は褒めてくれた。
 本当に火花のようなものが散り、すぐに目の前が真っ暗になった。今まで見たこともないような深い深い闇だった。貴志が尋常ではない様子で何やらものを言っていたが、言葉はぼわぼわとした黒い塊となった。どんどん深い闇に落ち込んでいくのは気分が良かった。戻れないくらいに沈み込んでしまえと思ったが、電柱にぶつかったと気づいた途端、ポンッと闇から放り出された。おかしくなってくつくつ笑った。右目を手で覆いながら、漫画みたいだとくつくつ笑った。貴志は青ざめた顔で横から私を見下ろしていた。恐ろしいものでも見るような顔つきだった。
 血を流したままファミリーマートでガーゼを買った。鼻歌を歌いながら機嫌良く店内を周り、レジの男を見つめながら金を払った。

部屋に戻ると貴志はきれいな長い指でやさしく薬を塗ってくれた。私はオロナインと同じくらいとろりと柔らかくなった。
 次の日目醒めると世界が縮んでいた。勇んで鏡を覗くと右目が青黒く腫れあがっている。見せびらかしたくなってそのままバイトへ行くと、気持ち悪いから眼帯をしてくれと情けない顔で店長に頼まれた。そういう仰々しいものは心をより一層浮き立たせるので、私は縮んで歪んだ世界をそれはいきいきと飛びまわった。
 瞼にはうっすらと傷跡が残った。
 
 
 
 ふとしたきっかけで貴志が泣いた。
「俺のこと好きになってよ」と言って泣いた。
 男を泣かせたことなど弟以外になかったので暫し唖然としたが、その言葉は母性本能をくすぐっていると思ったので、とりあえず慈しむような顔をしてみせた。貴志の身体に腕を回そうかとも考えたが、何も考えずにそれができるのはバイクの上でだけだった。結果ただ泣いているところを中途半端な表情で凝視する形となるのだが、泣けば泣くほど私の心は白けてゆくので、中途半端な表情を維持するのもまた大変だった。
 
 
 
 海へ出た。
 朝方喧嘩をしてバイクに乗せられたのだ。
 非常に腹を立てながらバイクの後ろに跨ったが、貴志の身体に腕を回すとすぐに自分か貴志かわからなくなった。貴志でも自分でもないひとつのものとなり、中の柔らかい溶液をたぷたぷいわせながら海へ出た。身体を分かつ頃には朝方は朝になっており、私も朝方の私とは全く別のものになっていた。
 砂のかぶったコンクリートの階段の上から2段目に腰をおろし、汚い海を全体的に眺めたり遠くのカップルを客観的に眺めたりした。少し寒いと身を震わすと貴志は家族のような愛を囁いた。ちっとも甘くなかったが少し温かだった。
 バイクに戻ると私の鞄が盗まれていた。絶望しかけたが直に自分の非日常好きを思いだし、思い出したら浮ついた。見つかるわけもないので探すふりをすることにした。波打ち際、枯れ木に覆われた茂み、うろうろと探すふりをするのは楽しかった。貴志は本気で探しているようで、時々申し訳なさそうに私を振り返った。これが「ふり」だとすれば貴志は「ふり」を実にうまくこなしている。負けてはいられないのだった。
 結局見つかるはずもなく、交番へ行き色んな書類を書いた。次々に紙を差し出す警官はとてもうれしそうだった。私もうれしくなって次々と書いた。昼過ぎまで書き続けた。

 
 

 バイクが転倒した。
 サンクスの前で止まるはずが凍った道路に滑ったのである。
 起き上がると貴志は真っ先に私を見た。大丈夫?ケガは?言いながら、私の膝や肘を点検する。掠り傷ひとつ負わなかったので、驚いたねぇ、なんてのんびりとした間合いで言ったのだけど、それでも貴志はいたるところ真剣な目で点検している。バイクみたいに点検されていると思い、関節にボルトなどついていたかと自分も確かめた。
「大丈夫。ケガしてないしどこも痛くない」
 改めてそう答えると貴志は情けない顔で笑った。よかった、と一度うなだれあくびをした後みたいな顔で笑った。
 あの時貴志は、まだローンの残っているバイクに目もくれなかった。後で気づいて何度も思い出したら何度でも満たされるような気分になった。身体の中の溶液がどんどん満ちて、何度でも泣けるような気分になった。
 
 
 
 寒さが緩んだと思い夜中にバイクで出かけた。
 出かけてから少しも暖かくないことがわかった。
 北がよくなかった。どんどん北に進みパークタウンへ行ったのがよくなかった。道路がきちきちと1ミリの狂いもなく平行に垂直に貼りつけられ、同じ形の家がレゴみたいに10列も20列も並んでいる。しかたなく規定通り作りましたという風な指先ほどの公園もあって、原色に塗られた奇妙な生き物たちは子供と遊ぶつもりなどさらさらないようだった。四角いテリトリーの中、きれいな色でつんとすましているのだった。
 同じ道なのか違う道なのかここは広いのかそれとも狭いのか、何もわからずぐるぐる周った。ぐるぐる周っているうちにどんどん固くなっていくのがわかった。私と貴志は宛らアイスクリーム製造機でまわるアイスのように、どろどろと溶け合い冷たく固まっていった。
 ぐるぐると鉱物ほどの固さになり、もうここから出られないのだなと無機物なりに考えていると、きっかり90℃の角にローソンが佇んでいた。
 何がマチのほっとステーションだ。その青と白の電飾によけい冷え冷えとさせられるわ。などとついこの間憤ったことも忘れ、しゅるしゅるバイクごと吸い寄せられた。全て水に流そうじゃないか。大らかにそう言わせるくらいのマチのほっとステーションぶりだった。
 嗜みとして二人に分かれて店内へ入った。なるべく柔らかくなる為に左回りでゆっくり歩いた。じっくりと時間をかけベビースターの種類を見ているうちに口元もほぐれたので、後ろをついてくる貴志に「固くなったね」と話しかけると「うん、すごく固くなった」と真剣な表情で頷く。
 貴志もあんなに固くなったのは初めてなのだと満足し、弁当をじっくり見る作業に取りかかろうと冷蔵ケースに目先を移すと、そこに悦三郎がしゃがんでいた。青と白のストライプな悦三郎は弁当を並べながらちらとこちらを見た。そこにいる悦三郎の輪郭が私の知っている3年前の悦三郎の輪郭と微塵も違わなかったので、心臓がぎゅっと萎縮してキンと固まった。
 ホットコーヒーをカウンターに置くと、視界の端から悦三郎が投げやりに歩いてきた。「こんばんは」とか「ひさしぶり」とか「どうしてここにいるの」とか「これは運命かしら」とか頭の中で巻いていた渦はみるみる一点に吸い込まれて消えた。

 たばこを見るふりをして悦三郎を盗み見た。もう私を見ようとしない。青と白の冷え冷えとした悦三郎は、感情の伴わない表情でコーヒーを手際良く袋に詰める。悦三郎の形をしているだけで悦三郎じゃないかもしれない。横から伸びた貴志の手が差し出された袋を受け取った。
「ありがとうございました」
 声も悦三郎のものと1Hzも違わないのだった。
 ガクガクと外へ出てコーヒーを飲んだ。熱いとも温いとも感じないのでぐびぐび飲んだ。悲しい、と思った。ああ違う。すぐに悔しい、と訂正した。
 貴志は黙って私の手を握り、そっと頬をよせた。私の固さを確かめているようだった。
 
 
 
 貴志の大学へ行った。
 新入生の入る時期でまだ講義を決めていない学生たちがたくさんいた隙に紛れ込んだのだ。
 実は私の父親は貴志の大学の教授で、気の合わなかった私は父親がどんな偉そうなことを喋っているのか聞いてみたかった。
 講壇の一番後ろの席を陣取ると、いかにも大学生になった気分になった。ノートを開いて4年ぶりに見る父親の姿を待った。暫くして出てきたのは小さなおっさんだった。いや、確かに自分の父親なのだが、実家で見ていたよりもはるかに小さなおっさんだった。小さなおっさんはマイクで何やら喋っていた。なんだかがっかりしてやる気がなくなった。貴志の隣でノートにみみずのような絵を描いたり、突っ伏して寝たりしていたら、あっという間に90分が過ぎていた。大学生も楽なものだ。
 その後は貴志と大学生の醍醐味と言える学食を満喫した。途中でバイト仲間の山崎に会い、なんでこんなところにいるんだよ、と小突かれたが大学生ですよ、という風な顔をして知らんぷりして食べ続けた。大学自体は大きいのに知り合いに遇うなんて、案外狭い世界なのかもしれない。
 キャンパスに出ると春風がぴゅーぴゅー吹いていた。目にゴミが入ったのでたまらなくなって右目のコンタクトレンズを外した。外した途端コンタクトは春風に持っていかれてしまった。ああ、27000円が・・・と思い一応貴志と中腰になって探していると、いつの間にか周りにいた学生たちもみな中腰になっていた。ここの学生は貴志に限らずみなお人よしらしい。
 もちろんコンタクトは見つからなかったが、あの光景は何度思い出しても面白かった。
 
 
 
 海の話をしよう。
 
 私は海を嫌いじゃないと思う。もしかしたら好きなくらいかもしれない。できれば日が暮れきる前の仄暗い海、夜が明けきる前の仄明るい海がいい。季節は晩夏が一番好ましいが、泳ぐ時節じゃなければこの際いつでもいい。ただ、砂浜は必須だ。これだけは譲れない。
 
このようにシチュエーションを提示するくらいだから、やはり私は海を好ましく思っているような気がする。気はするのだが、どうもぴしりと断言できない。ひとたび海へ行ってしまうと、わからなくなるのだ。
 
つめたくやわらかな砂に足を埋めつつ波打ち際を目指す間に、身体の奥はしんと静まる。頭の中に冴え冴えとしたものがどんどん侵み入り、いざ海を目の前にした自分はどんなリアクションをとるのが適切かと考え始める。駆け出して、叫んだり波を弾いたりするべきだろうか。貴志に抱きかかえてもらい、くるくる回されたりしたほうがいいのだろうか。一体私はどうしたいのか。
 ずんずん海に近づきながらどんどんわからなくなる。貴志はどうしているのかと、振り向いて確かめることもできない。視線を前方180℃に見据え、気侭を装う私に海は近づく。前に進むことしか出来ない私に、海は容赦なく近づく。波打ち際に辿りつき、そっと足先で薄く平たい波を突いてみても、やっぱりさっぱりわからない。本当はしんみりと海を見たいが、貴志の為に(そしてもちろん自意識の為に)無邪気にはしゃいで見せようと思うのか。それとも本当はむしゃぶりつくような勢いではしゃぎたいのに、貴志の目を気にしてそうできないのか。どうしたいのさと思いながら、すすすと寄ってくる波から中途半端によろよろ逃げる。胸の内を見透かされないように、気侭で勝手な私は海に集中したふりをする。にわわと広がり消えゆく海の端で、自意識と陶酔が互いを侵食し合っている。
 海は気苦労が絶えない。戻ろうか、と言われると少しほっとする。好きかどうかもわからない。なのにほとぼりさめればまたあの際に、身を置きたいと思ってしまう。
 
 
 
 
魚住と浮気のようなものをした。
 バイトの方々と飲んでいる席で、貴志とのセックスはどうかと魚住に問われたのである。

 貴志は就職活動中で暫くバイトを休んでいたし、酒が入った所為もあり、あまりいいものではないと素直に答えた。酔いを見破られぬよう気をつけながら、私が不感症かもしれぬと続けると魚住は少し笑って、じゃぁさ、俺と試してみようと言った。歯を磨こうと同じくらいにさらりと言うので、それもいいかとその気になった。
 魚住もバイクに乗っているのだった。黒の250ccで、跨ぐと嫌なバランスだった。魚住の腰をどんなにきつく掴んでも一向に溶け合わない。誰かが引き離そうと後ろ髪を掴みひっぱるので意識が遠のく。
 魚住の部屋へ向かっているのかと思いきや、丘のようなところで降ろされた。エンジン音が切れると丘はしんとし、かすかに波の音だけが聴こえた。くらくらと黙って魚住の後をついた。
 魚住は細い道をざくざく進み、一本の松の木で止まった。松には何か文章のようなものが彫り付けてある。魚住は、ぼんやりそれを眺める私に、有名な心霊スポットだよと少し低い声で言った。魚住なりのサービスなのだろうか。
 ふぅん・・・と言って読み出すと魚住がたいそう慌てて遮った。
「全部読むと死ぬんだ」怯えた表情で真剣に阻む。
 神妙な顔で松の木の下に恭しくたばこを供える魚住の動作に私も倣った。しかし魚住のバイクの後ろのほうがよっぽど怖いのだった。
 低く波音は聴こえども海は見えない。酔いはとうに醒めていた。
 見たこともない角度の坂道をぐにゃぐにゃと曲がり魚住の部屋にあがり込んだ。二度と辿りつけないであろう坂道だった。部屋の隅にちょんと座り所在のないままでいると、ロフトの梯子をするすると登り魚住が誘った。卒業アルバムがあるよ、と誘った。なんと古典的な誘い文句だ。半ば呆れて天井の魚住を見上げていると、漢字ドリルもあるよと平気な顔をして言う。ならばと思って梯子を登り漢字ドリルを解いた。魚住と私と代わる代わるに、バカだとか言い合いながら解いた。
 淡々とセックスは執り行われた。「試す」と言った魚住の言葉に相応しいセックスだった。終わると魚住はうつ伏せの姿勢で彼女の悪口をばんばん言った。あいつのここが嫌いだのあいつのここが怖いだの次から次へと言葉が出てきた。悪口というものが久しぶりだったので、興味深くほうほうと聞いた。聞きながら、貴志は悪口を言わないことに気づいた。人を悪く言うどころか愚痴すら聞いたことがない。貴志が控えめ過ぎるからそれこそ2年も気づかなかった。そういう感情は一体どこへしまわれているのだろうか。
 そんなことを考えていると魚住はもう静かになっていて、私を見る目が貴志への愚痴を促していた。そうか、私も披露しなくてはと懸命に貴志をなぞった。
 貴志はいつも穏やかだ。声を荒げたことがない上、料理も掃除もうまい。不穏な空気を読み先に謝る。礼儀正しく社交的で背が高く足も長い。賢い大学へ通い実家は金持ちで次男坊。そして何よりも貴志はやさしい。他の誰よりも私を愛しんでくれる。非の打ち所などなかった。
 ほぅと溜息を漏らした。誇らしいような途方に暮れるような気持ちだった。
 
 
 
 貴志が「もうつきあえない」と言った。
 久しぶりに貴志のアパートへ出向き、まだ座りもしない私にそんなことを言うのだ。

 性質の悪いことを。そう思い、立ちあがっている貴志を正面から見据えた。被せられる次のセリフを待つ。
「他に好きな子ができた」
 そうきたか、と思った。どこの人?と芝居にのると同じゼミで知り合ったひとつ年下の子だと答える。どこに住んでいるのかと訊くと貴志と私のちょうど真ん中にある町の名を告げる。何だか具体的で嫌だった。冗談にも明かすタイミングというものがある。
 私は本棚の上にあったケースの引出しから一枚写真を取り出した。貴志が夏に行ったゼミの合宿の集合写真だった。貴志以外誰一人知らぬ、私とは別の世界の写真。
 一目見て、ああ、と思った。冗談なのに、わかってしまった。
「この子でしょう」と指差すと貴志は一瞬目を見張った。
 私の顔を暫く見つめて静かにこくりと頷いた。
 ねえ。貴志は私を見ない。ねえ、こんな近くに住んでたら、偶然この子に会ってしまうかもしれない。そしたら、私、この子刺すかも。
 貴志の反応は驚くくらい素早かった。反射的にあげた顔は見たことのない表情をしていた。
「それだけはやめてくれ」
 私の冗談に対し、語気を強めてはっきり言った。私の見知らぬ背の高いその女を、この間まで私にしていたように、庇った。
「バイクには、乗せた?」溜息を吐くように頷く。
「海に・・・」続かない言葉の先も含めて頷く。
 貴志に腕を回してみた。貴志はゆるゆると私の頭を撫でたが貴志の身体は固かった。もう決して私と溶け合うことはないのだと悟った。
 好き、と言ってみた。貴志は苦しそうな顔をした。
 構わず好きと続けた。何度でも言った。泣きながら2年5ヶ月分言い尽くしてしまったので、もう5年分くらい前借りした。貴志は頭を撫で続けながら掠れた声でごめんと言った。

 好きと私が繰り返す度、貴志は目を細めた。まるで憎いと言われているように、苦しそうに目を細めた。だけど好きと言えば言うほど貴志の心は白けてゆくのであった。
 


































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