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■ なんでもできる

 今年は異常気象だというけど、汗が流れるのは久し振りだから、だからこの状況を楽しもう。簾をおろし、窓を開け、蚊取り線香を焚こう。風鈴を飾り、柔らかな風が吹くのを心待ちにしよう。西瓜にかぶりつき、種を飛ばそう。茣蓙を敷き寝転んで、藺草の匂いを嗅ごう。起毛した絨毯のようにふかふかな芝生の感触を、靴の裏に感じよう。ベンチに腰掛け、宇治金時をシャクシャクと崩そう。木陰に新聞をひいて、昼寝をしよう。僕は出来るだけ笑っていたい。笑っていたいよ。

                                                       2001 7 31




■ 夏の小休止

 開いたドアから押し出されるような形で電車を降りたが、これは僕の意思で、だ。足早に改札へ向かう人々を感じながら、顔を上げることのできない僕はベンチまでの距離をうまく測れずにいる。東京といえどもローカルな雰囲気のあるこの駅に、実際に降り立つのは初めてだった。閑散とした構内に背を向け、冷や汗の滲む顔を両手で覆う。どこからか漂ってくる焼けたチーズの匂いは気分の悪さを助長させ、思わず顔をしかめる。指の隙間から風景を眺める。線路脇に佇む向日葵は、不安げな面持ちで陽光を探していた。古い造りの茶色の柵から微かな風に乗ってシャボン玉が流れる。鈍色を映し出したそれは、ふいに音もなく消えた。僕は顔から手を離し、ゆっくりと空を仰ぎ見る。

                                                       2001 7 27




■ 金魚

 人の波だけがうねり、空気は動いていなかった。炎天下を流れに任せて歩き、少しの隙間を見つけてシートを広げる。うだるような暑さの中、頬が上気するのは気候の所為だけではないようだ。みんなが望んでいるのは少しの風と夕闇への推移。

 空を切り裂く音でビールを片手に立ち上がる。花火は木々で切り取られた空にうまく広がらなかったが、それでも自分の気持ちまで昇華していることに気づく。もっと高く、と願いながら昇る煙火を目で追う。細工が施されたものもいいが、枝垂れ柳のような余光が見たい。あのひと色でいいから。

 終局を迎える花火を背に、僕たちは歩いている。幾らかの人が澱むことなく同じ方向へ流れてゆく。手をひかれ歩く浴衣の少女。絞り染めの朱の帯がふうわりと揺れる。僕は夏の夜に藍い闇をゆらゆら泳ぐ赤い金魚のことを思った。

                                                       2001 7 22




■ 風光

 「〜に行ってみようか」徹夜明けのぼんやりとした頭で外へ出ると太陽はカンと照っていたが、湿気は少なく肌を撫ぜる風が心地よかった。僕たちはそれぞれ家路までの切符を買い、ホームに並んで立っている。突然の彼の提案をうまく解することができずに、僕はもう一度聞き返す。「今から公園に行ってみようか」指さされた駅は僕たちの切符と別の路線。

 日曜の午後、小さな商店街は家族連れで溢れていた。細い路地を得意げにバスが行き交い、道の端に身を寄せた僕に届くのは靴屋の皮の匂い。重厚な空気の渦巻くアスファルトをしばらく進むと、川のように細長い池の先が見えた。あまりの陽気に頭がおかしくなったのか、僕は一人売店でソフトクリームを買い、舐めながら池の縁を沿う。何艘ものボートが浮かぶこの池でのんびりと釣り糸を垂らす人々。彼は缶コーヒーを片手に水色のバケツを覗き込む。「この魚は何?」「んーフナ」振り返った子供が素っ気なく答える。「これは鯉だと思うがなぁ。釣るんだったらやっぱり食べられる魚がいいなぁ」「ブルーギルだってどうにかすれば食べられるのだから、何でも食べられるんじゃないかなぁ」と僕は言ったが、もちろんそんな罰ゲームみたいなものを食べる気はなかった。ふいに弟と行ったハゼ釣りが頭を掠め、少しだけ地元に思いを馳せる。甘いミルクは安っぽいコーンに何本もの白い筋をつくる。僕の手からだらだらとこぼれ落ちたそれを見て、彼は困ったように笑う。手や服をべたべたと汚しながら、多分僕は太陽の下でこれを溶かしたかったのだなぁと思う。

 池を横切る橋を渡り樹の茂る日陰へ入ってゆくと、南の国の音楽が奏でられていた。小さなステージの前に腰をおろし、今日の空気に微妙に馴染むその音色に耳を傾ける。緑と白のムームードレスを纏った白髪の女性がやわらかな投げキッスを贈る。そんな光景を微笑ましく思うと同時に僕は少しむず痒くなり、思わずはにかむ。空が見えないくらいの木々に囲まれた広場のベンチに座り、ゆっくりと煙を吐き出す。ただぼんやりと緑を眺める僕と違って、彼の目には色んなものが映っている。何もないような世界の小さなものを見落とさない。僕は感心しながら彼がぽつりと言う言葉の示唆するところへ注意を向ける。彼はもう別のものを見ている。重なり合う葉を眺めていると、幼い頃の写生会を思い出す。公園で思い思いの場所を陣取り広がる風景を写しとろうとするのだが、見れば見るほど僕には目に映るものが何色なのか分からなくなる。そして結局自分には表現できるはずもない、といつも途中で放棄した。それなのに、僕はなぜ綴ろうとするのだろう。表現できるはずもない情景を。

 小さな池の辺で真っ白と斑のアヒルが羽を繕っている。木漏れ日が水面を反射し、葉がゆらゆらと波打つ。石垣の上で真っ白と斑の猫がにゃーと鳴く。僕たちはまたベンチに座り、まだ高い太陽を木葉越しに見上げる。空になった僕の煙草に気づいた彼が、さり気なく自分の物を差し出す。全てはゆっくりと流れる。きっと僕が何かを綴るのも写真を撮るのも、記憶に残しておきたいからだと思う。いつかそれを見て懐かしむ為ではなく、忘却に委ねる自分の内に鮮明に残しておきたい、と願う所為だと思う。多分僕は忘れてしまうから、せめてこの行為を。

 いつの間にか太陽は視界から消えてしまった。夕暮れはあの柳の向こうにあるのだろうが、ここからはよく見えない。空は白く発光し、雲は水色に染まっていた。しばらく水面を眺め、僕らは駅へ向かって歩き出す。知らない町を通り過ぎるバスに揺られながら、他愛のない話をする。踏切で止まるバスの窓から見えるのは、すれ違ってゆく黄色い電車と蒲色の夕陽。彼の腕と僕の足にはいくつもの赤い斑点。

                                                       2001 7 16




■ 夏と果物の覚書き

 冬に見た焼き芋屋のトラックは桃を積んでいた。近づくと幸せな夏の匂いがプンとした。綺麗な白とピンクのコントラスト、そしてその値段に小さな溜息を吐く。視覚と嗅覚で立ち去ろうとした僕をおじさんが呼びとめた。「こっちのはちょっと見た目が悪いけど、すぐ食べるなら問題ないよ」地べたに積み重ねられた箱の中を覗くと、白い柔肌にいくつかの内出血を施したものが並んでいる。更に際立たせた匂いに、僕は軽く眩暈を感じる。「5つくらい持っていくか?」というおじさんの言葉を「一人暮しだから2つで充分」と笑いながらやんわり制し、そっと袋に入れてもらう。家路をたどる途中、シンナーを吸うように熟れ過ぎた桃の匂いを吸い込んで、また小さな溜息を漏らす。

 レッドグレープフルーツを半分に切り分けスプーンで掬う。ルビー色の果肉は玉のまま、パチパチと弾け飛ぶ。部屋の方々に飛んでゆく水玉はきれいだけれど、できれば散らかさずに食べたいなぁ。うまい方法はないものかと思ったが、結局僕は考え倦ね同じようにスプーンを突き刺す。数日後には乾涸びたそれが足の裏にくっつくのだろう。

 外の熱気は夜になってもじっとりと肌に絡みついた。足に纏わりつく生地に苛立たしさを憶えた僕は立ち止まり、自販機に金を入れる。薄く葡萄の味がついた氷を口の中に放り込み、ガリガリと噛み砕く。内側から少しずつ熱が奪われ、僕は冷静さを取り戻す。器から落ちた冷たい雫が足を伝う。

                                                       2001 7 14




■ 断片

 僕はさっきからキウイを眺めている。ニュージーランド産のそれは下から見ると確かにキウイなのだが、頭の先はキューピーのように窄まっている。今日僕は久し振りにスーパーへ行った。会社の喫煙所のテーブルには毎日なぜか新聞のちらしだけが置いてあり、女の子たちはときどきそれを熱心に眺めている。誰かが言った大手スーパーの「火曜100円市」を、僕は帰りに思い出したのだ。

 キウイの山の前で僕は長い間立ち尽くしていた。100円 という赤い文字の下に「果肉は黄色です」と書いてあったからだ。奇妙な形をしたキウイと呼ばれる果物をナイフで二つに裂き、開いた口が黄色であることを想像しようとしていたのだが、僕の頭の中でそれは黄色い西瓜にとって変わってしまう。イメージを拡散させるかのように軽く頭を振って、僕は「キウイ」を2つカゴに入れた。トマト、レッドグレープフルーツ、ひとつひとつカゴに入れる度、不思議な感覚に捉われていくことに気づく。僕はこの場所を好んでいるようだった。右や左に目を動かしながら、浮き足立った気分になっている。匂いと同じように、視覚はそっと記憶を呼び起こす。いくつもの断片が組み合わさり、無意識に抽象化される。

 いつもカートを用意するのは僕の仕事だった。「今日はそんなに物を買わないわよ」と言う彼女に「これがなくっちゃ始まらないんだよ」とお決まりの台詞を口にする。彼女の後ろでくるくるカートを回したり、たまに自分が回ったりして、おばさんに睨まれるのはしょっちゅうだった。「何を作ろう」真剣に食材を吟味する彼女の目を盗み、自分の欲しい物を勝手にカゴに放り込む。「おでん。ハンバーグ。プリン。豚の角煮。カレーライス」とめちゃくちゃな献立を捲し立てる。飽きれた顔で振り向く彼女はカゴに入れられた不要なものを見て怒るのだ。「もう。こんなのいらないでしょ」戻してらっしゃいと睨む彼女がおもしろくって、僕はぽいぽい色んな物を入れる。それが本当に欲しいのか、彼女の怒った顔が見たいのか分からない。「プリンはどっちかにしなさい」「はーい」と物分りのよい子供みたいな返事をする僕を見て、最後は彼女も笑うのだ。

 僕はまだ飽きずにキウイを眺めている。ふと、彼女とキウイを食べたことはあっただろうかと考えたが、彼女との日々があまりにも断片的過ぎて思い出せない。無理に繋げてみたところでそれは意味のある結合とは思えないし、まぁこれでいいんだろうなと僕は思う。それよりも、そろそろキウイを切ってみようか。

                                                       2001 7 10




■ 瞬間、心、重ねて

 イヤフォンから流れるジャズのメロディは、僕を物憂げな気分にさせた。明るい朝の陽射しの中、僕は何も見えていない。僕は自分を諦観している人間だと思っていたが、実は内に静かに潜んでいた驕慢さにここ数日辟易していた。諦観と驕慢は共存することなく、全く別のところに根を這っていて、しかもそれぞれ蔓延る場所を間違えているように思う。僕の前を歩く女の背中には汗を含んだ染みができている。服の色を一段と濃くしたそれは、じわじわと拡がり女を覆い尽くしてしまうような気がした。

 昼の休憩室は混み合っていた。空いている席に煙草と弁当を置き、自動給湯のお茶を汲みに行くと、ポットの前に女が立っていた。どうやらお湯が出ないようだ。何だか泣きそうな顔をしている。通りすがり何の気なしにボタンを押してやると、呆気なくお湯は出た。あまりにも拍子が抜けたので ふっ と笑うと女も笑い「あの、同じフロアの方ですよね」と言った。よく分からないので「ああ」と曖昧に頷くと、私達と一緒にご飯を食べないかと言う。どうやら同じ研修生らしい。正直一人のほうが気楽だったが、人間関係という課題をいつも最後まで残してしまう僕は、とりあえずその好意を受け入れることにした。女ばかりのその空間は賑やかだった。無邪気に色々と質問をする彼女達に聞かれたことだけ答え、僕はマイペースのふりをして自分の寡黙さを隠した。「これがDHA、これはビタミンB、こっちがビタミンC」食事が終わると女はピルケースを取り出し、丁寧に説明した。あまり興味はなかったが「これは?」と聞くと「それはビタミンE。DHAと一緒に飲むと効果があるみたい」と答え、オレンジ色の透明なカプセルを僕の掌に置いた。僕はそれを苦笑と一緒に飲み込んだ。

 研修生である僕らはかなりの時間放っておかれていた。僕は手持ち無沙汰になり、何一つメモをとらなかったノートを開く。感じた何かを写し取ろうとじっと枠線を見つめたが、滲み出るものはうんざりするような自分の内側ばかりで、僕はそこに「何も見えない」と記した。「頑張れ」僕は闇雲に繰り返す。「頑張れ」それは思考ストップの合図。

 今日もこの路線の車内は閑散としていた。イヤフォンから音楽は流れていない。「いっせーの」という掛け声に文庫から顔を上げる。隣に座っていた恋人同士が何やら言い合っている。「グレイと言えば?いっせーの」「次郎」「感動する映画と言えば?いっせーの」「タイタニック」二人はおかしいほど声を合わせ、その度に女の白い腕が男に絡まる。そのお題に冷やかな薄ら笑いを浮かべそうになったが、二人はそれをかなり真剣に興じている。重なる瞬間に必然性や安心感、そして何より運命的なものを見出せるからか。そう考える自分がむしろそれに縋りつこうとしているのだな、と僕は今更気づいた風に思った。

 外に出ると空には月だけが浮かんでいた。いつも仰ぎ見る月は青白く、精鋭で静粛な気持ちにさせられるのだが、今日の光はやさしすぎて尚更僕を哀しくさせた。途中の公園のベンチに深く腰掛け、少し満たない橙色に煙を吹きかけてみる。何て形容しようか。暫く考えてから「萩の月みたいだ」と思ったが、その名前の菓子は月をイメージして作られているのだから当たり前だ。自分の発想の貧困さにほとほと飽きれ立ち上がり、トイレの電球が切れていることを思い出した。

                                                        2001 7 3




■ 線路を歩く

 踏切の遮断機は上がっていた。立ち止まらないことなど皆無だと思っていた僕は、その見慣れない光景に不安を感じ、いつもと同じように止まってみせる。別に踏切は僕を陥れようとしているわけでもないようだ。自分という人間の小ささに改めて気づくよ、と自嘲気味に足を踏み入れると、線路の真ん中に灰色の柔らかそうなものが埋まっていた。きれいな縞模様をした猫だ。まさか、と思い目を凝らすと大丈夫、と示すかのように猫はシャンと立ってみせた。午前1時にこの路線の電車は終わっているだろうか。池袋の最終は何時だったろう。猫と目を合わせたまま考えてみたが、僕には大丈夫だという確信が持てなかった。余計なことかもしれないけれど、このまま放っておきたくない。僕の自己満足で申し訳ないんだけどね。心の中で呼びかけながら、線路の枕木に降りた。電車の気配はなく、二本のレールの先には赤く光るいくつもの信号が夜の静けさを演出していた。枕木を少し歩く。スタンド・バイ・ミーを思い出すあたりが何ともありきたりだけど、このままどこまでも歩いていけるような気はする。一瞬目的を見失ってしまった僕を猫の背中が諌める。トトトトと目の前を真っ直ぐ進み、振り返って僕を待つ。数歩進むと猫も進む。同じ距離を保つ。追いかけっこをしているんじゃないんだ。レールから外れてほしいんだよ。ぺしゃんこにはなりたくないだろ?僕は三味線を弾かないし。僕らの一定の距離はそんなくだらない想いを伝えてはくれないようだ。僕は溜息をついてみせ、これは自分の真意ではないことをパフォーマンスしてから、ダッと猫に向かって走り寄った。思惑通り猫は驚き、砂利を横切りどこかの家の塀を登って僕の視界から消えた。

 誰か死ぬことが悲しいのかどうか、僕にはよく分からない。ほとんど経験がないからだ。大阪のあの事件はテキストサイトにさえ余波を施したが、正直僕は何を思うわけでもなかった。ただ漠然と酷い話だなぁと感じるのみで、そこからどう掘り下げようとも思わなかった。深くその概要を知ろうともしなかったし、別に知りたくなかった。子供でもいればまた違ったのだろうけど、今の僕には結局他人事だったのだ。ただ、猫が死ぬのを僕は見たくなかった。

                                                        2001 7 1




































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