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秋生 (1)
 
 はじめてもらった秋生からのメールはどこか不思議な雰囲気があった。
 その頃のわたしは、3ヶ月つきあった男の人とこのままそこはかとなく続いてゆくんじゃないか、なんてあてにならない自分の勘がそれはみごとに呆気なくはずれ、夜中に声を出して泣いてみたり前向きなふりをしてみたり心療内科に通ったりするのにも飽き、誰かにもう一度触れてもらいたいと思っていたところだった。わたしはその人とつきあったことで忘れかけていた人の温もりを思い出してしまったし、それをまた忘れるまでの月日を考えると気が遠くなった。それならば自分から探せばいいのだと、2ヶ月経ったある晩秋の夜に出会い系の掲示板へ投稿したのだ。
 メールは嫌になるほどたくさん来た。ほとんどがコピー&ペーストで不特定多数に送られているようなものだったけど、わたしは確実に自分へ向けられているであろうメールにだけ返事を書いた。
― 川上弘美・小説・写真・松本大洋・映画・インターネット・お酒・散歩 ―
 これが秋生がわたしにメールを出させたキーワードらしかった。「一緒に料理とか作れるくらい 仲良くなれたら楽しそうです。」とそのメールは締め括られていた。わたしは秋生のプロフィールの「のんびり」というキーワードがいいと思った。刺激的な毎日など、もうたくさんだったのだ。
 その時は気づかなかったけれど2通目のメール、武田百合子の「ことばの食卓」を薦めてきたことでわたしはもう決めていたのだと思う。この人をもっと知りたい。たくさんのメールの中で唯一そう思える人だったことを。
 編集の仕事をしていた秋生はわたしにいろんなことを教えてくれた。三途の川は細いらしいと、酔っぱらって気持ち良さそうなお父さんたちが額を突き合わせていながら大きな声で話してたこと、羽根木公園の100本以上ある梅の花がきれいなこと、会社に行く途中に通る靖国神社は幼稚園児、太陽、銀杏の葉とすべて黄色に包まれたとろとろとした陽気だったこと・・・。その感性のひとつひとつがわたしにとって新鮮であり少し懐かしくあり、秋生のメールはわたしにとって性を超越するような妙な安心感があった。わたしはハルジオンとヒメジオンの違いがわからなくなってしまったこと、ルームシェアをしていてリビングがにぎやかなこと、東風荘でドラ11が流れたことなんかをせっせと書いて送っていたけれど、自分が鬱とパニック障害で薬を飲んで暮らしていることは知らせなかった。そのうち打ち明けようとは思っていたが、まだ秋生には怖い女だと思われたくなかった。
 メールをはじめて一週間ほど経った夜中、秋生から秋生らしからぬメールが届いた。まだ会社にいるらしき秋生のメールには、いつものほんわかした雰囲気はなく少しつかれたと弱音が書いてあった。そして、まだ起きていたら電話がほしいと携帯の番号が添えられていた。わたしは少し考えたけれど午前3時のおかしな調子が後押しして、いつもはかけない携帯のボタンを、それこそ勢いで押してしまった。
 2コールほどで男の人の声がしたこと。それくらいしか憶えていない。変な話だが、わたしは電話の向こうから普通の男の人の声が聞こえてきたことに、たいそう狼狽したのだった。ネットやメールでPCの画面の向こう側に人がいることをわかってはいるつもりだったが、やはりバーチャルな気分が入り混じっていてうまく認識されなかったのだろう。電話をかければ男の人がでる。当たり前のことだ。それなのにわたしは何を求め、どうしたかったのだろう。電話をきった後、考えてみたがわたしにはわからなかった。秋生からのその次のメールには今週の土曜日に下北の喫茶店で会いたいと書いてあった。「虹色」という喫茶店だった。
 
 下北沢駅の南口。そこが待ち合わせ場所だった。時間を守らないわたしがこの日ばかりは10分も前にそこにいた。期待はしたくなかったし、がっかりしたくもなかった。期待されたくなかったし、がっかりされたくもなかった。待ち合わせ場所についたら電話する。そう約束していたが、わたしは電話できずに見たくもない古本屋で本を探しているふりをしていた。わたしはどうしたいのだろう。そればかり考えて。
 喫茶店虹色は虹色の階段を登ったところにあった。絵本にメニューがかかれ、端にはコタツ席のあるようなかわいい喫茶店だった。秋生は細くて無口な青年だったけれど、わたしと同じチェーンスモーカーだったのがせめてもの救いだった。話が途切れればタバコを吸えばよい。そして秋生は明らかにわたしの好みの外見ではなかった。というよりこの人があのメールを書いていた同一人物とは思えなくて、わたしは少々戸惑っていた。わたしは何を話しただろう。一生懸命だったことは憶えている。得意の恋愛のことでも話したのだろうか。2件目の居酒屋ではお酒も入り少し饒舌になっていたかもしれない。秋生は何度か楽しいと言ってくれた。そして帰り際、終電のなくなったわたしを自分の家に誘った。
 これはもうセックスを承諾したようなものなのだろう。だけどわたしはまだそうは思いたくなかった。あのメールの性を超越したような秋生をわたしはまだ期待していたのだ。そんなはずはない。無理矢理そう思い込みたかった。
 秋生の部屋はグレーだった。電気をつけてもそのグレーは消えなかった。そして本棚を見てわたしは愕然とした。そこにはサブカルな本たちがずらりと並んでいたのだった。性から逃れられない。そう観念するしかないような本たちが一斉にこっちを見ていた。
 
 日曜の夕方、わたしは人々に流されながら知らない町を歩いていた。昨日の夜のことを思い返すと死にたい気持ちになった。ベッドにふたり横たわり、しばらくすると秋生は近寄ってもいいか訊いた。一度目は断ったが秋生はもう一度訊いた。しょうがないのだ。だってわたしは帰り際にもうセックスを承諾していたのだから。だから精一杯平気なふりをした。開き直ってどうぞと言うと、秋生はどうぞって言われると・・・と少し笑った。そしてそっと抱きしめた後、誰にでもこうしてるわけじゃないよ、と言った。わたしは絶望した。そんな言葉は聴きたくなかった。そんな誰にでも言えるつまらない言葉を秋生には言ってほしくなかった。だけどわたしには何もないから。こうするくらいしかできることはなかったから。ただ秋生がわたしを通り過ぎるのを待つだけだった。
 その後もメールは続いていた。秋生はいつもの秋生に戻っていたが、会った後の最初のメールに一言だけ「生々しい僕のほうが涼子さんに失礼していたら、ごめんなさい。でも、涼子さんの体は柔らかかったです。」と書いてあったのでちょっと笑ってしまった。柔らかかったなんて言われたのは初めてだったし、そう言われるのは嫌じゃなかった。12月23日にわたしたちは2度目の会う約束をした。葛西臨海公園の水族館でバホバホと泳ぐウシバナトビエイを見ましょうと秋生が言ったからだ。
 夕方の葛西の海は黒く沈んで何の音もせず何も見えなかった。暗くて寒くて誰もいなかった。右のほうにディズニーランドの光が見えたけれど、世界にふたりしかいないようなそんな静かな時間だった。わたしたちはしばらく黒い海を眺めた後、自分たちだけでも存在していることを確認するかのように手を繋ぎ公園を出た。電車に乗って渋谷へ出るといつも通りの街だった。クリスマスのイルミネーションとたくさんのカップルを見た途端ほっとしてお腹が空いた。
 

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